21
長野君にかき氷をご馳走になって帰ると、何ともいえない重苦しい空気が漂っていた。
「あ。お帰り、太一君」
「ただいま。・・・・・・・どうした?」
冴えない顔をしていた松岡に声をかける。
「あ、うん・・・・・・・・・。何か朝から兄ぃの機嫌悪くて・・・・・・・」
不安げな松岡。
声を聞きつけたのか、階上から降りてきた長瀬も何だか情けない顔をしていた。
「太一君、何でぐっさん機嫌悪いか知ってますか?」
「・・・・・・・茂君に何かあったのかな・・・・・・・」
長瀬の問いに、松岡がぽつり呟いた。
山口君の機嫌が悪いのは、大抵の場合茂君絡みだ。
それは松岡も長瀬も充分知っているから、まずそこに考えが行くだろう。
俺は昨夜のことを思い出して、何となく鬱な気分になった。
「・・・・・・・・茂君とケンカしてたみたいだよ、昨日の夜」
俺がそう言うと、2人は合点がいったように、あぁと小さく呟く。
「早く仲直りしてほしいな」
長瀬がぽそっと言った。
「茂君は?」
「もう寝ちゃったみたい」
「そっか」
長瀬の願いはしばらく叶わないようだ。
少なくとも、今日は山口君の機嫌は降下したままに違いない。
重苦しくなるだろう食卓を想像したら、胃が痛くなった。
「マボ、今日の夕飯は何ですか?」
「トマトいっぱいもらったから、冷製スパにでもしようかな」
「わ、美味そう!今日は泊まってこーっと」
「またかよ」
きゃいきゃい騒ぐ二人を後目に、俺は自分の部屋に向かった。
2人は昨日の夜の口論を知らないから、あぁやって普通でいられるんだ。
俺も、聞かなければよかった。
「あ」
階段を上がると、ちょうど部屋から出てきた山口君と鉢合わせた。
「・・・・・・・・ただいま」
「あぁ、おかえり」
何だか気まずくて、俺は思わず視線をそらしてしまった。
山口君も何となくぎこちない様子で返して、すぐに下に降りていってしまった。
気まずい気分で部屋に入る。
服を着替えぬまま、ベッドに倒れ込んだ。
酷く憂鬱だ。
気分が晴れない。
身体は何ともないはずなのに、息苦しく感じる。
深呼吸をしても胸のつかえはとれない。
何だか石が乗ってるみたいだ。
「・・・・・・・・・はぁ・・・・・・・・・・・」
出るのはため息ばかり。
泣いてしまったら楽になれるかもしれない。
でも泣けない。
松岡と長瀬に心配かけさせちゃいけないから。
潤みそうになった目を閉じて、瞼に力を入れる。
出てきた涙が引っ込んだ頃、頬をぱちんと叩いた。
着替えて食卓に向かう。
そして心情に反して、俺は笑った。
松岡も長瀬も、山口君でさえ、さっきとはうってかわって笑ってた。
それはいつもと変わらない、1人足りない食卓風景だった。
22
次の日も、山口君が起きてくる前に家を出た。
最近は起きてくるのが遅いらしい。
夜遅くまで何かしてるのかもしれない。
「今日帰り遅いかも」
俺がそう言うと、松岡は驚いていた。
「珍しいね」
「ちょっと仕事が溜まっちゃってさ」
「そっか。がんばってね」
松岡は笑顔で送り出してくれた。
本当は仕事なんて溜まってない。
ただ家にいるのが辛いから、残業するだけなんだ。
長野君に無理言って、9時まで仕事をした。
人通りの少なくなった夜の道は真っ暗で、何となく寂しい気分になる。
窓から入ってくる風が湿っぽくて、雨が降るのかもしれなかった。
家に着いたのは10時過ぎ。
松岡はバイトだと言っていたから、まだ帰ってはいないだろう。
ただいま、と声をかけて中に入る。
居間のテレビが付いていて、縁側に背中が見えた。
「山口君」
無意識に、声をかけていた。
俺の呼びかけに山口君が振り返る。
珍しく、煙草を片手に。
「おぉ、おかえり。遅かったじゃないか」
「うん。ちょっと残業」
「そうか。お疲れ」
俺は鞄を置いて山口君の横に座った。
「珍しいね、煙草」
その手にある火のついた煙草を指さすと、山口君はため息をついた。
「シゲが吸ってたんだよ、こないだ」
「取り上げたの?」
「そう。高校教師かってな」
苦笑いを浮かべて、横手に置いてあった灰皿に灰を落とす。
「・・・・・薬は飲まないくせに煙草だけは止めないんだよ」
「・・・・・俺ももらっていい?」
俺の言葉に山口君は一瞬眉を上げ、箱を差し出した。
「お前も珍しいじゃん」
禁煙してたんじゃねぇの、と言いながら、火を点けてくれた。
「たまにはね」
「禁煙ストップだな」
クスクス笑いながら2人で煙草を蒸かす。
湿っぽい風が海の方から吹いてきた。
「・・・・・・あのさ」
少し前に山口君が持ってきた焼酎片手に俺はふと、話しかけた。
「何?」
「茂君さ、」
「・・・・・・おう」
「癌なの?」
そう言って、山口君の顔を見ると、眉根を寄せていた。
「・・・・・本人から聞いたのか?」
「一昨日の夜、茂君とケンカしてたでしょ。たまたまだけど・・・・・・聞いちゃった」
「・・・・・・・・・・・・そうか」
山口君は険しい顔のまま、グラスに半分ほど残っていた酒を一気にあおった。
「初期だけどな」
「治る?」
「薬を飲んでくれればまだ間に合う」
「・・・・・・・・・・飲まないんだよね」
俺はグラスを握り締める。
この間の口論がリアルに頭の中で再生された。
「・・・・・・迷惑かけたくないって言うんだよ、あの人」
少し間を置いて、山口君が言った。
「これ以上迷惑はかけたくないから、死なせてほしいって言うんだ!
迷惑って・・・・・・今更それを言うのかよ・・・・・・・・。俺が・・・・・・・・・どれだけ・・・・・・・・・・」
山口君は酔っているのかもしれない。
普段はこんなこと言うような人じゃないのに。
23
「本当は脳外科医になる予定だったんだ」
不意に、山口君は言った。
「え?」
「今じゃ外科医だけどな。もともとあの人の病気を治したくて医者になったんだよ」
新しい1本に火を点けながら続ける。
「じゃあ何で外科医になったの」
「・・・・・・・・楽しかったんだ。外科の方が面白かった」
それは学生の頃の話なんだろう。
こういう話を聞くのも初めてかもしれない。
「本当は建築関係の大学に行きたかった。でもシゲを治したくて、医学部に変更してさ。
何とか受かって、進学して、絶対脳外に行くって思ってたんだけど、向いてたのは外科だった。
切って縫って、それだけで患者は治るんだ。どこを切ればいいのか手に取るように判ったし。
簡単だったから、すごく楽しかった。・・・・・気付いたら外科の期待のルーキーだってよ」
苦笑しながら煙を吐き出した。
「・・・・・結局、俺はあの人じゃなくて自分を優先したんだ。向き合うって決めたはずなのに、俺は逃げた」
ぽつり、ぽつり。
山口君はゆっくりと、話を進めていった。
医者になってから今の状態に落ち着くまでのことを、断片的に。
十数年にも及ぶ苦悩は、俺のそれとは比べ物にならないもので、聞いていて、痛かった。
「・・・・・・・・・・何のために俺は医者になったんだろうな」
山口君は、小さくそう呟いた。
俺は、何も言えなかった。
結局酔いつぶれてしまった山口君を、バイトから帰ってきた松岡と部屋に連れて行った。
珍しいね、兄ぃが酔いつぶれるなんて。
松岡はそう不思議そうな顔をしていた。
次の日も、その次の日も、俺は朝早く家を出て、夜遅く家に帰った。
家にいたくなかった。
24
「太一」
かけられた声に振り返る。
そこにいたのはTシャツにジーパン姿の長野君だった。
時計の針は午後9時を指している。
ブラインドを降ろしてるから判らないけれど、外はもうすでに人通りはないだろう。
「終わりそう?」
そう言いながら中に入ってくる。
「微妙」
笑いを浮かべて俺は答えた。
本当はする事なんてもうないから。
「何か食べた?」
俺の背後、坂本君のデスクから椅子を引っ張り出して、それに座った。
「あぁ、そういえば何にも食べてないや」
言われて初めて気付いた。
お昼休み以来何にも食べてない。
「・・・・・・・・・・・ねぇ、太一」
小さくため息をつきながら、長野君は机に肘をつく。
「誰にも相談できないことなの?」
「・・・・・・・え・・・・・・・・・?」
「太一の所には相談できる人いるでしょ。松岡君と長瀬君は当てに出来ないのかもしれないけど。
・・・・・・・誰にも心配かけまいと一人で頑張ってるのが悪いとは言わないけどね、見てて痛いからさ」
じっと見てくる視線から目を逸らした。
「逃げるなとも言えないからね、俺は。そんな強い人間でもないし。
でも、仕事もないのに残業する必要はないでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・残業代はつけてくれなくていいよ」
長野君の言いたいことは解ってたけれど、口から出たのは別のこと。
「そういうこと言ってるんじゃない」
それはあっさり切り捨てられる。
「太一。正直言って、俺は怒ってるんだよ。どうして全部抱えるの?そんなに俺は当てに出来ない?
俺だけじゃない。坂本もだよ。どうせ茂君のことなんだろう?それなら山口君にも言えないしね。
確かに俺たちは何も出来ないかもしれない。ていうか出来ないだろうね。
でも、愚痴を聞くぐらいなら、俺たちでも出来るんだよ」
「・・・・・・・・・・でも・・・・・・・・・・・・」
「山口君には言わない。全部俺の中に留めておくから」
そうして、長野君は俺の頭を軽く叩いた。
「・・・・・・・・っ」
形容するなら、糸が切れたというのが適当だったと思う。
長野君が、いいんだよ、と言った瞬間、何かが切れた。
ずっと我慢してたこと。
茂君の病気のことも、山口君との口論のことも。
8月に入ってから起きたこと全部をぶちまけた。
今思えば何を言ってるのか判らなかったかもしれない。
脈絡も繋がりも関係なくしゃべった。
そして、最後には泣いてしまった。
声を上げて、ガキみたいに。
死なないでほしいのに。
生きていてほしいのに。
あの人はそれを望んでくれない。
それが悲しい。
何も出来ない自分が悔しい。
そんな俺の言葉を、長野君はずっと黙って聞いてくれていた。
25
「ごめんね」
俺が謝ると、長野君は首を横に振った。
「大丈夫だよ。多少はスッキリした?」
「うん」
完全に楽になったわけじゃないけど、でも息苦しいなんてことはもうない。
「それはよかった」
そう笑った長野君に、俺は何となく恥ずかしく思った。
だってあんなに泣いてしまったから。
もう日付が変わりそうだったから、その日は長野君の家 ─── 事務所の2階に泊めてもらった。
次の日。
休んでいいよ、という社長のお言葉に甘えて朝早くに家に帰った。
時間からいって、松岡はもう起きてるだろう。
山口君も起き出して海に行ってるかもしれない。
けど、帰りたくないとは思わなかった。
ただ愚痴って泣き喚いただけなのに、こんなに変わるとは思わなかった。
俺は何て単純なんだろう。
昨日までの自分があまりに滑稽すぎて、何だか笑える。
今までどれだけ余裕がなかったんだろう。
いつも見ていたはずの朝の景色は新鮮で、とてもきれいに見えた。
26
「ただいまー」
朝帰りなんて初めてだった。
校則を初めて破ったときのような、少しドキドキした気持ちで扉を開ける。
そして、2階から降りてきた長瀬と鉢合わせた。
「あ!!太一君!!」
「長瀬?泊まってたのか、お前」
「お帰り太一君!!昨日全然連絡ないし、携帯もつながらないし、心配したんですよ!!!」
そう言いながら飛びついてくる長瀬をかわし、家に上がる。
「ゴメンゴメン。携帯電源切れちゃってさー、連絡するの忘れてたよ」
心配したと繰り返す長瀬にそう言いながら、俺は台所に向かった。
暖簾の向こうからいい匂いと鼻歌が聞こえてくる。
「ただいま」
「おわっ!ビックリした!って太一君じゃん。おかえり、残業お疲れ」
「あれ?俺連絡してないよね?」
「昨日長野さんから連絡あったんだよ。連絡するの忘れてるみたいだから代わりにって」
鍋をかき混ぜながら松岡は笑った。
匂いからすると、味噌汁だろう。
「味噌汁?」
「そう。ここんとこずっとパンだったからね。今日は茂君も起きてるし」
たまにはね、と嬉しそうに笑った。
「起きてるんだ。じゃあ山口君は茂君とこ?」
「ううん。海行ってる。もうすぐ戻ってくると思うよ」
「やっぱりね。ちょっと着替えてくるよ。今日は休みだから」
俺はそう言って台所を後にした。
暑苦しいカッターを脱いで、Tシャツと短パンに着替える。
洗濯物片手に、階段を下りる前に茂君の部屋を覗いた。
「茂君」
「お?太一やん。おはよぉ」
窓際に立って外を眺めていた茂君が、こちらを振り返った。
「おはよ。アンタ起きてていいの?」
「今日は調子がええねん。すっきり目が覚めたしな。それより、今日出勤やないの?」
今日は金曜やろ?と首を傾げる。
「有給もらった。その代わり昨日まで残業ばっかりだったけどね」
笑いながら俺がそういうと、茂君はなぜかキョトンとした顔になった。
「何かあったん?」
「へ?何で?」
「いや、何か機嫌えぇな思て」
相変わらずこういう勘は鋭い人だ。
言えるはずない。もちろん言う気もないけれど。
けど、そう考えて息苦しくなることもなかった。
「何かはあったけど、秘密。ほぼ貫徹だからテンション高いのかもしんない」
俺がそう言うと、茂君は苦笑を浮かべた。
「松岡が張り切って朝ごはん作ってたよ。食欲あるなら行こうよ」
「せやね。たまにはちゃんと朝ごはん食べよかな」
茂君はそう笑って、部屋から出た俺の後をついてきた。
27
久しぶりの全員揃っての朝食。
海から戻ってきた山口君は、調子の良さそうな茂君と、朝帰りした俺を見て、
少し驚いたような顔をしていたけど、すぐに機嫌を良くしていた。
「何か今日の朝ごはん豪華ですね!!」
卵焼きを自分の皿に乗せながら、嬉しそうに長瀬が言った。
「どっかの誰かが頑張っちゃったんじゃないの?」
「何でですか?」
「それは・・・・・ねぇ」
首を傾げる長瀬に、俺はみなまで言わず、隣の山口君に同意を求める。
山口君はちらりと松岡を見て、苦笑を浮かべた。
「何よ、兄ぃ」
「何でもねーよ」
「マボがどうかしたんですか?」
長瀬が再び首を傾げる。茂君も不思議そうに松岡を見ていた。
2つの視線を受けて、松岡の顔が次第に赤くなっていく。
「何でもないよ!!黙って食べろっつーの!!」
耐え切れなくなって声を上げた松岡に、茂君と長瀬がヒドイねぇと声を合わせる。
「照れ隠しやって、絶対」
「そうですよね!マボは嬉しいんですよ、茂君が起きてきて」
ニコニコと長瀬が言った。
「ねー、マボ」
「そうなん?」
「たまたま早く使っちゃわないと痛んじゃうもんがいっぱいあったからこうなっただけだ!!」
「昨日お前が買い物行く前冷蔵庫空っぽだったけど?」
「あ、兄ぃ!!」
黙々と食べていた山口君の言葉に、松岡はさらに真っ赤になる。
「ホントにたまたまなんだからね!!アンタのために作ったってわけじゃ・・・・・」
「ありがとなぁ、松岡」
ポツリと、茂君が言った。
「美味しいで」
そう笑った茂君に、松岡は黙る。
「・・・・俺が作ったのが不味かったことある?」
「そういえばないなぁ」
「当然だよ」
照れくさそうに視線を逸らす松岡を見て、茂君は苦笑を浮かべた。
山口君は面白そうに目を細め、長瀬は嬉しそうに顔を綻ばせてやり取りを見ていた。
いつもと変わらない食卓。
ご飯が美味しくて、笑いが飛び交って、全員揃ってて。
ただそれだけなのに、とても幸せに思えた。
28
お昼前。病院に行くと言って茂君と山口君は出て行った。
ゴウンゴウンと回る洗濯機を横目に、俺は外を見た。
西の方に黒い雲。
もしかしたら雨でも降るのかもしれない。
洗濯したのにタイミング悪い。
ぽつり呟いて、縁側に向かう。
「雨降りそうだね」
縁側のある部屋で本を読んでいた松岡が頭を上げて、苦笑。
「洗濯しちゃったのに最悪だよ」
縁側に出ると、長瀬が部屋の中からは見えない位置で転がって寝ていた。
「・・・・・・・・・・・・・太一君さ、何かあった?」
縁側に腰掛けると同時くらいに、松岡が訊いた。
「・・・・何で?」
「最近さ、何ていうか、暗かったじゃん、太一君。多分、原因は茂君のことだと思うんだけど」
言い辛そうに、松岡は視線を彷徨わせる。
「・・・・・俺、起きてたよ」
そして、そう言った。
「え?」
「こないだ、茂君と兄ぃ、夜にケンカしてたよね。何を言ってるのかまでは聞こえなかったけど」
俺は視線を逸らす。
「でもあの次の日から暗かったから、茂君に何かあったのかなって思ったんだけど、何にも言ってくれないし、
太一君頑張って笑ってるし、もしかしたら口止めされてるのかもしれないから、訊けなくて。
でも何か今日は暗くないっていうか、スッキリした?から・・・・・・・・何か乗り越えたのかなって」
うまく言えないけど。
もどかしそうに、よく分からない身振り手振りを交えて話す松岡。
「俺の気のせいだったらいいんだ。でも、長瀬もおかしがってたから・・・・・・・」
呆然と見つめる俺に、松岡は慌ててそう付け加える。
「・・・・ううん。気のせいじゃなかったよ・・・・・・・・でも、何にも知らないと思ってた」
だって、そんな、気にしてるような様子なんてなかったのに。
「だって、太一君も兄ぃも隠そうとしてたじゃない」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「俺達が黙ってるだけで2人が笑ってくれるなら、訊かないでいようって」
その言葉に長瀬の方を見る。
寝てると思ってたら、いつの間にか起きていた。
「だって、俺たち、太一君にもぐっさんにも、茂君にも笑っててもらいたいもん」
いやに真剣な目で、2人は俺を見ていた。
何だか、泣きたくなった。
こんな、2人が、こんな風に思ってたなんて、夢にも思わなかった。
自分のことしか考えられなかった自分が恥ずかしく思える。
そして、ようやく、俺だけが苦しいわけじゃない、ということを理解した。
2人とも何も知らなくて笑ってたわけじゃなかったんだ。
知ってて、それでも笑ってたんだ。
判らないことばかりで、少しずつ漏れてくる情報も良くないことばかり。
どれだけ不安だっただろう。
「・・・・・・・・・・ごめん。ごめん、心配かけて・・・・・・」
「ううん。元気になってくれてよかった」
松岡も、長瀬も、それだけ言って、笑っていた。
俺は結局我慢できなくて、少し泣いてしまった。
同じぐらいに雨が降ってきた。
雷を伴ったそれは短時間で激しく降って、少し気温を下げた。
上がった後は爽やかな青空が広がって、一斉に蝉が鳴き始めていた。
29
花火やろうよ。
一番気温が上がる頃、長瀬がそう言った。
「だって、茂君も起きてるし、8月だし。夏休みといったら花火じゃないっすか」
「そうだなー。今年まだ一回もやってないもんな」
松岡が同意する。
「ちょうど目の前海なんだから、やらなきゃもったいないですよ」
ねぇ、と長瀬が俺の方を向いた。
「いいんじゃねぇ?ま、帰ってきた茂君が起きてるかわかんないけどな」
俺がそう皮肉ると、長瀬は少し膨れる。
「いいもん。茂君寝ちゃってても、今度起きた時にやればいいもん」
「分かった分かった。とりあえず花火買ってこりゃいいんだろ?」
松岡が不貞腐れた長瀬にそう言う。
すると長瀬は嬉しそうに松岡に飛びついた。
「さすがマボ!!分かってる!!」
「暑苦しいから抱きつくな!!男に抱きつかれても嬉しくないんだよ!!」
その代わり荷物持ちについてこいよ、という条件を、長瀬はあっさり了承した。
「というわけだから、買い物行ってくるね」
「おう、留守番してるよ」
やかましく出かけていく2人を見送って、俺は畳の上に横になった。
聞こえるのは蝉の声と波の音。海に遊びに来ている人たちの喧騒も遠くに聞こえる。
今日は海の家は休み。
休みっぱなしのように見えるこんな状況でやってけるのかとも思うけど、大丈夫なんだろう。
海の家というより、医務室に近いらしいから。
今日は他の医者に代わってもらってるようだ。
こんなにあっさりしていていいのかと、自分でも思う。
よく考えてみれば、何も解決していないのに、こんなにも楽になってしまった。
自分でもよく判らない。
ただ思ってたことを言っただけなのに。
自分の気持ちが解ったからかもしれない。
もしかしたら、いろんなことが一気にありすぎて、周りが見えなくなってただけなのかもしれない。
だからといって全部を受け入れられるようにはなれないけど。
でも、向き合っていこう、と、ぼんやり空を眺めた。