17
「部屋で大人しくしとるわ」
苦笑いを浮かべながら、青い顔のまま茂君は部屋に戻っていった。
彼が戻ってから、俺は急いで台所を片付けた。
山口君には秘密にしなければならないし、全部きれいにしてなかったことにしたかったのかもしれない。
片付けを終えて、俺は自転車に乗って近所のコンビニに出かけた。
買ったのはスポーツ飲料のペットボトルをいくつかと、アイスクリームを人数分適当に。
吐いてそのまま何も口にしないで部屋に戻ったから、せめて水分だけでもとってもらわないと脱水症状を起こしてしまう。
コンビニの中は涼しかったけれど、好きではない冷たさだった。
人工的な涼しさ。頭が痛くなるくらいに冷えた空気が詰まっている。
買い物を終え、扉を開けると湿気を大量に含んだ空気が蝉の声とともに入り込んできて、店員の声もぼやけて聞こえた。
自転車を漕いでも涼しさが感じられない。
アスファルトの熱気で遠くが歪んで見える。
海の方から聞こえてくる声も遠くて、現実味があまりない。
これは夢なのかもしれない。
さっきのことも、そもそも今のこの生活だって、全部俺が見ている夢であって、虚像の世界なのかもしれない。
あの人の小説のように。
山口君はまだ帰ってきていなかった。
「茂君」
半開きの扉をノックして部屋を覗き込む。
「太一?どないした?」
茂君はベッドの上でノートに何か書き付けていた。
「何も口にしてないでしょ。この暑さじゃ脱水症状になっちゃうから、せめて水分はとっといてよ」
そう言って、俺はペットボトルを投げて渡す。
「おん。ありがとな」
へらっと笑った顔は、さっきよりは幾分かよくなったのだろう、色が戻っていた。
「暑くない?エアコンかけようか?」
少し気分が晴れた気がして、俺はベッドの縁に腰掛けて訊いた。
「大丈夫やで。エアコン好きやないし、それなりに風が入ってくるし」
潮臭いけどな、と茂君が笑う。
「あれ?海嫌いだったの?」
「嫌いやないけど、好きでもないなぁ」
「じゃあ何でここにいるのさ」
俺の問いに茂君は苦笑を浮かべて窓の外に目をやった。
「文書き始めた頃にな、達也に『静かなところに引っ越したい』て言うてん。
したらこの家こうてなぁ、あいつ。自分も引っ越すから一緒にどうだって」
懐かしそうに目を細める。
「小さい頃から長いこと一緒におるけど、あの時ほどあいつに呆れたことはないわ。
そんなん、海は好きやないとは言えんて」
「・・・・・・・・・山口君らしいね」
「それまで散々僕の我侭きいてくれとったからな。たまにはきいたらなかんと思て」
冗談混じりの皮肉を含めて小さく笑った。
「何でも僕に合わせてくれてん。ホントは医者やなくて別のことしたい言うてたんにな・・・・・・・・・・」
ぽつり、そう呟いた顔は少し悲しそうで。
「・・・・・・・・・・もっと早くいけてたら良かった」
窓枠の向こうに見える入道雲と青い空と、碧の海。
それを眺めて茂君は言った。
どこに、とは訊けなかった。
というよりは、聞きたくなかったんだと思う。
茂君の口から、直接、その言葉を。
「・・・・・・・・・・・・・あぁ。達也が戻ってきたわ。また準備してへんやろうから、持ってったって、タオル」
「うん」
俺は急いで、もしかしたら逃げるように見えたかもしれないけど、部屋から出て階段を降りた。
戸棚からタオルを1枚取って縁側に向かう。
途中階段の前を通るとき、ふと足を止めた。
上で、きっと茂君はさっき書いてたモノの続きを認めてるんだろう。
今思い出す、ついさっきのことがあまりにも儚く思えて、俺はそこを離れた。
18
その夜、ふと目が覚めてトイレに立った。
バイト帰りの松岡が疲れ果てて寝ているから、起こさないようにそっと廊下に出る。
そして茂君の部屋から明かりが漏れてるのが見えた。
まだ起きてるのか、と思いながら横を通り過ぎようとした時、中から声が聞こえてきた。
『今日起きてから何か食べた?』
『食べてはないけど水分はとったで。ほら』
『もしかして買いに行ったの?』
『ちゃうよ。太一に買ってきてもろた。僕今日部屋から出てへんもん』
山口君と茂君の声。
茂君が話した内容は少し事実と違ってた。
『・・・・・・・・・・・・・・食欲は?』
『残念ながらないわ。腹も減らん』
淡々とした口調。小さなため息が聞こえた。
『・・・・・・・・・・お願いだから治療受けて』
立ち去ろうとした俺は、その言葉に足を止めて息を潜めた。
『寝てしまうのは、まだ治療法は見つかってないけど、だからといって治療を受けない理由にはならない』
『・・・・・・・・・・・・』
『治療法があるんだから試してほしい。切らなくても薬でも治るんだよ』
『・・・・・・薬はもう飲んどるよ』
『・・・・・・・っあれは違う!あれは痛み止めだろっ!!俺が言ってるのは抗癌剤のことだよ!!』
山口君が声を荒げた。
その内容に、俺は声を上げかけて慌てて口を塞ぐ。
『・・・・・・何で!?何でそんなに治療を拒否するの!!
俺はアナタにこうやって怒鳴りつけるために医者になったんじゃない!!』
『・・・・・・・・・・・・・』
『まだ間に合うんだ!!進行性じゃないし、本当に初期だから!!
アナタに手術に耐えれるだけの体力があるなら俺が切ってた!!
でも今のアナタじゃちょっとの麻酔でも目覚めなくなるかもしれない!
だからやらなかったんだ!東山さんだって言ってただろっ!!』
山口君の声がだんだんと悲痛なものになっていく。
こんな声、聞いたこともない。想像も出来ない。
『可能性があるなら試してよ!!俺はシゲに死んでほしくないんだよ!!』
『・・・・・・・・達也。太一と松岡が起きてまうよ』
『そんなことどうでもいい!!聞けよ、俺の話を!!』
口論が続く。
といっても山口君が一方的に怒鳴っているだけで、口論とは言えないのかもしれない。
でもどれだけ経っても話は平行線を辿って、茂君が良しとすることはなかった。
俺は聞いていられなくなって部屋に戻った。
松岡は聞いていたのだろうか。
一晩中、結局起きてくることはなかったけれど。
19
結局あれから眠れなかった。
妙に頭が冴えて、眠るのが少し怖かったから。
「おはよう」
1階に降りると、すでに松岡が朝食の準備をしていた。
「あれ、太一君。今日は早いね」
「たまにはね」
松岡に、俺はきわめて平常通りに微笑む。
「たまにはパンも食べたいよね」
そんなことを誰にともなく呟いて、鼻歌混じりに鍋をかき混ぜていた。
気遣い屋の松岡がこんなにも機嫌が良いのだから、きっと昨夜の話は聞いてなかったんだろう。
何故だか少しほっとした。
「もう食べちゃう?」
フライパン片手に松岡が訊いた。
「食べれんの?」
「卵焼けば食べれるよ」
「じゃあ食べる」
「はいよ」
コンロの前に戻ると同時に、じゅう、といういい音がして、香ばしい匂いが辺りに漂う。
俺はパンをトースターにセットした。
「松岡さ、何かあったの?」
鼻歌を歌いながら皿に目玉焼きを盛りつける松岡に訊く。
「え?何で?」
「何でって、めっちゃ機嫌いいじゃん。お前」
インスタントのコーヒーを淹れながら俺が笑うと、松岡も照れたように笑った。
「昨日ね」
フライパンを置き、定位置に腰掛けて松岡が言う。
昨日、と言われて、俺は少しドキッとした。
「こないだの映像の評価訊きに行ったのよ。バイトの前に」
「おう。で、何て?」
「結構いいねって」
「言ってもらえた?」
「うん」
へへっと少し頬を赤らめて笑う。
「行けそう?」
「脈ありかも」
「・・・・・・・・・・・・・よかったな」
「ありがと」
照れながらも素直に松岡は俺に言った。
松岡はもうすでに新しい道を歩き始めてる。
長瀬も今道を拓いてる。
じゃあ、俺は?
きっと、俺は足を止めて、真っ暗な道の向こうに進めずにいるんだ。
20
山口君が起きてくる前に家を出た。
お盆だからということもあって道は空いていた。
予定より少し早めに会社に辿り着くと、すでに長野君がいた。
「おはよう太一。お盆も出勤だなんてがんばるね」
「この前もらった有給分の仕事が残ってるからさ。それにお盆休みはズラして取った方がいいでしょ」
俺が笑うと彼も笑う。
今週は坂本君がお盆休みを貰っていた。
「それにしても暑いね。冷房が効きやしない」
午後3時過ぎ。
一番気温が上がる頃。
ばたばた書類で扇ぎながら長野君がボヤく。
「うちはここに比べると涼しいよ。エアコンつけてないし」
「それありえねー」
「ヒートアイランド現象じゃないの?海辺はいいよ」
「潮臭いけど、魚が美味いよねー。今度遊びに行こうかな。茂君と山口君にも最近全然会ってないし」
懐かしそうに言った。
「2人は元気でしょ」
長野君はすでに断定して訊いてくる。
内心ドキッとしたのを極力抑え込んで、平静を装う。
「茂君は、眠り病は健在?」
けれど、笑いながらのその言葉に、俺は激しく動揺した。
健在どころか、酷くなってる。元気だなんて言えるはずがない。
口を継いで出そうになったその言葉を飲み込んで、俺は笑った。
「うん。相変わらず日がな一日寝てるよ」
「でも仕事は確実なんでしょ?」
「すごいよね。今まで自分で言った締め切り破ったことないもん」
俺が感心して言うと、長野君は笑った。
「そういうところはちゃんとしてるんだよね。高校の頃から変わらないなぁ」
伸びをしながら書類をデスクに戻す。
「かき氷食べに行こうか」
「え?」
「暑すぎてやる気出ないし、もうすぐ4時だし。
このままかき氷食べに行って、今日の仕事はおしまいってことにしよう」
俺の返答も聞かず、長野君は立ち上がって車のキーを持ち出した。
「残業してもいいから、とりあえず今は食べに行くよ」
ほらほら、と急き立てられて、俺は腰を上げる。
まだ坂本は連れてってないんだよね、と楽しげに歩き出す長野君の背中を、少し遅れて追いかけた。