13

その日の夕飯は、特に普段と変わったところはなかった。
もちろん松岡と長瀬は何も知らないわけだから、俺や山口君が言わなければ2人に伝わることはない。
山口君も本当に何もなかったような様子で、それがあまりにも自然すぎて、俺には逆に不自然に見えた。



「・・・・・・・・どういう、こと・・・・・・?」
「言葉の通りだよ」
俺の言葉に山口君は小さくため息をついた。
「・・・・・・・あの人、眠ってるとき、ほとんど昏睡状態なんだ。起きてくる方がすごい状態で・・・・・・。
 ・・・・・・・・・・最近薬の効きも悪いし、あの人あまり食べないから体力もないし・・・・・・・・」
山口君の言うことは頭の中に入っていかない。
というか入っていっても、それが目覚めなくなる理由として結びつかない。

そもそも、信じたくない。

「・・・・・・・・死なないよね?」
俺は思わず、今まで口にしないようにしてきた言葉を使った。
「・・・・・・・・・・・・」
山口君は何も言わず、視線を逸らすだけで。
「っ・・・・・・・・・・ねぇ!何で黙っちゃうの!?大丈夫なんでしょ!?
 だってそのために山口君医者になったんじゃないの!?だったら・・・・・・・・・・!」
「無いんだ!!」
俺の言葉を遮って、山口君が叫んだ。
「治療法は無いんだよ!!そもそも原因が判らないんだ!!何年も調べてるのに!!
 ずっと後手に回って、目を覚まさせる薬を使うしかできない!!」
縁側から立ち上がって、何かを振り払うような仕草をして、こちらを向いた。
その顔は本当に泣きそうで、俺もつられて泣きそうになってしまった。
「このままじゃシャレじゃなく死んじまうのに!!それなのに・・・・・・・・・・あの人は笑ってんだよ・・・・・・・・・・」
だんだん声は小さくなって、山口君は俺から視線を逸らした。
「・・・・・・・・・・・・・きっと・・・・・・・・・・年内に脳死状態になる・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・もしかして、尊厳死希望・・・・・・・・・なの?」
「・・・・・・・・あの人らしいっちゃらしいけど・・・・・・・・・でも、こっちの気持ちも考えてくれねぇかな・・・・・・」
人工呼吸器を着けてまで生きたくないなんて、確かに茂君なら言いそうなことだ。


もしかしたら、死ぬ前に自分に関する全てを処分していくんじゃないだろうか。


そう考えて、それがあまりに有り得そうなことだから、考えたことを少し後悔した。



「太一君、食べないの?もしかして嫌いなモノだった?」
松岡が心配そうな表情で、ぼーっとしていた俺を覗き込んだ。
「そんなことないよ。いつも通り美味いよ」
俺は松岡に笑顔を見せる。
「ならいいけど、さっきから箸が進んでなかったから・・・・・・・・」
この家の中で一番敏感なのは松岡だ。
ちょっとした異変でも気に病むことがある。
「今日暑かったからさ、ちょっとぼーっとしちゃったよ」
俺はとっさに嘘をついた。
「じゃあさっぱりした物にしとけばよかったね」
申し訳なさそうに松岡が言う。長瀬が美味いですよ、とよく分からないフォローを入れた。


山口君が明るく振る舞っているということは、この家の中が暗くなるのを良しとしていないからだ。
だから、俺も笑った。


笑ったけれど。




正直笑えないこの状況の中で、どうして俺は笑えてるんだろう。














14

その日、2日振りに出勤した。
実は昨日・一昨日は、茂君が起きると踏んで、有給をもらっていたのだ。


今日は松岡が留守番。
集中講義は昨日で終わったらしい。
長瀬はまだ寝ていたけれど、俺は車に乗り込んで家を出た。
朝も少し早い時間だから、そんなに道は混んでない。
1時間後には渋滞で流れの滞る大通りを、速度を出して通り抜けていく。
この2日間で、何だか街が知らない所に変わったような気がした。
もしそれが本当だとしたら、たぶん、変わったのは俺の方だろう。
衝撃の大きいことがあると世界を見る目が変わると聞くけど、
窓の向こうで移り変わる景色に色彩がないのもそういう理由だろうか。


「お、久々の出勤だな。編集者殿」
街の片隅にある2階建ての小さなビル。
そこの1階に俺の勤める出版社がある。
というかこのビルは長野君所有の物で、彼の住居が2階にあるのだけど。
ガラス張りの扉を開けると、坂本君が笑いながらそう皮肉った。
「そっちこそ、お忙しいみたいですね。副社長」
「まぁね」
笑いながら俺はデスクに着く。
「あれ?長野君は?」
「あいつは取材という名の食べ歩き」
「朝から?」
「昨日から泊まりがけで四国の方まで」
その経費がバカになんねぇよ、と坂本君は肩をすくめて小さくため息をついた。

ここの出版社は本当に小さい。
従業員は社長副社長含めて3人しかいないのだ。つまり俺と坂本君と長野君の3人。
出している本も、俺が担当する時任弦と、坂本君が担当するもう1人、そして長野君がメインの雑誌だけ。
だからこそ自由に休みがもらえるわけだけど。

「イノッチ元気だった?」
「締め切り前だから相変わらず居留守使ってやがるよ」
坂本君は苦笑混じりにため息をついた。
「あぁ、そうだ。さっき連絡があってな、長野が昼には帰ってくるらしい。たまには3人で昼飯食いに行こうぜ」
上手にバランスをとりながらイスの足を持ち上げてぐらぐら揺れながらそう笑う。
「いいね。って、ちょっと、転ばないでよ」
「転ばねぇよ」
俺が笑いながら言うと、バカにすんな、と坂本君は少しふてくされたようにそう言った。














15

お昼ちょっと前に長野君から連絡が入って、坂本君の車で駅まで迎えに行った。
「あ、こっちこっち!」
駅前でうろうろしていると、ある人影がこちらに向かって手を振る。
「長野君!」
「あ、太一。久しぶりー」
その人はにこやかな笑顔でこちらにやってきた。
その両手にはボストンバッグ1つといくつもの紙袋。
「あー!おっ前、またこんなに買ってきやがって!!」
「いいじゃん、俺の金なんだもん。あ、これお土産」
笑顔で差し出したのは大量の紙袋のうちの1つ。
「1つだけかっ!!」
「残りは俺のだからね」
食べたら殺すから、と物騒なことを言って長野君は笑った。
「どこにしようか」
「お前に任せる」
長野君の問いに坂本君が答える。
こういうときは彼に任せておいた方が良い店に行けるのだ。
「じゃああそこにしよう」
俺が無言で同意を示すと、長野君は坂本君に指示を出す。それを受けて車はゆっくり走り出した。


そこは小さなラーメン屋だった。お昼の時間にもかかわらず、客は全くいない。
けれど、意外と美味しいんだよ、という長野君の言葉通り、確かに美味しかった。
3人でラーメンを啜りながら、旅行先のこととか自分の担当作家のこととか、他愛もない会話が細々と続く。
そんなとき、長野君が俺の顔を見て首を傾げた。
「太一、何かあった?」
「え?」
「さっきから思ってたんだけど、時々泣きそうな顔してるよ」
「あぁ、俺も思った、それ」
長野君の言葉を受けて、坂本君もそう言う。
「・・・・・・・・え・・・・・・・・俺そんな顔してた・・・・・・・・・・・?」
「時々ね。窓の外見るときとかちょっとした話の間とかに」
「何だったら話聞くぞ?」
心配そうな表情で2人は俺の顔を見た。
その優しさに、一瞬何もかも話して、泣いてしまいたくなった。
けれど、体面とかいろんな人の気持ちとかを考えたら、口は真逆のことを話していた。
「何ともないよ。何だろう、久しぶりの出勤で疲れたのかも」
心配かけてごめんね、と俺が笑うと、それならいいよ、と2人も笑った。




そして、自分のことが自分でもよく解らなくなった。

泣きたいのに笑ってしまう自分。

苦しくても全て押し込めてしまう自分。




いつの間に、俺はこんなに強くなってしまったんだろう。

誰かに縋りついて泣けるほど弱かったなら、こんな思いを1人で味わわなくても済んだのかもしれない。














16

次に茂君が目を覚ましたのは、眠ってから4日後の12日の昼過ぎだ。

その日はちょうど土曜日だったのだけれど、山口君は海に出ていて、
松岡はバイトに出かけた直後で、長瀬も実家に帰っていたから、そこに居合わせたのは俺だけだった。

扇風機の軋む音だけが響く中、俺は装丁のデザインを考えていた。
いつものように縁側に陣取って、露でベチョベチョになった麦茶のコップ片手に
スケッチブックに思いつくものを描いていた時、後ろの方で床が小さく音を立てた。
「・・・・・・・・おはよぉ」
「おそようだよ。もう2時ですけど」
「あー、ホンマやなー」
ポリポリ頭を掻きながら茂君は洗面所に向かう。
水の流れる音がして、タオル片手に戻ってきた。
「みんなは?」
「山口君は海で、松岡はバイト。長瀬は家に帰ったよ」
「じゃあここにおるのは僕と太一だけかー」
どっこいせー、とジジクサイ言葉を呟きながら茂君は俺の近くに腰を下ろす。
「何しとんの?」
そして俺の手元を覗き込んで笑った。
その笑顔を見て、この前の山口君の言葉は嘘なんじゃないかとぼんやり思った。
「この前もらった原稿の装丁考えてんの」
「あぁ、あれかー」
何故か照れながら茂君は俺のスケッチブックを勝手に持っていってペラペラ捲る。
「どれがいい?」
「ん〜。毎度のことながらどれもええもんなぁ。僕には選べれへんわ」
「おだてても何も出てこないよ」
俺がスケッチブックを奪い取って冗談で睨むと、茂君は苦笑いを浮かべた。
「あ、そうだ。訊きたいことがあるんだけどさ」
そう言って原稿を持ち出すと、茂君が身を乗り出してきた。
「ここなんだけど、どういう意味?」
「そこな。やっぱ解りにくかったか。ここはどう表現しようか迷ってん」
俺の筆箱から赤ペンを取り出して、その上から書き直していく。
ワープロ字が消されて、独特な癖字で余白が埋められていった。
「これでどうやろか?」
そうやって瞬時に書き直された箇所は、以前のものより格段に解りやすくなっていた。

そんなふうに手直しが進む。
原稿とスケッチブックに顔を突き合わせていて、ふと気になって茂君の顔を見た。
「・・・・・っちょっと!どうしたの茂君!!」
その顔は真っ青で、冷や汗のようなものが浮かんでいる。
「・・・・・・・スマン・・・・・・・・・・・・・・・・・ちょ・・・・・・・・・・・・吐きそ・・・・・・・・・・・」
口元を押さえて呟く茂君を、慌てて一番近い台所に連れていった。


背後から苦しそうな声が聞こえてきた。
見ていられなかったので、背を向けて立っていたのだけれど、
その声があまりにつらそうで、不安になって傍に行った。
背中を摩りつつ、蛇口から水を出そうと手を伸ばして、目に映ったのは血の混じった吐瀉物。
「・・・・・!!」
思わず手が止まってしまった。
「・・・・・み・・・・・・・・水・・・・・・・・・・」
茂君の声に慌てて蛇口を捻る。流れ出た水は全てを流していってしまった。
「・・・・・・・・茂君・・・・・・・・今の・・・・・・・・・・」
俺の呟きに、茂君は気まずそうに俺から視線を逸らす。
「・・・・・っ山口君呼んでくる!!」
「待って!!」
走り出そうとした俺の手を茂君が掴んだ。
「・・・・・・頼むから・・・・・・・!!お願いやから達也には言わんで!!」
「でも、これは言わなきゃマズいよ!!だって血が・・・・・・・!!」
「もう心配かけたないねん!!・・・・・・・・・後生やから・・・・・・太一・・・・・・・・・・」
その必死な顔に、俺は足を動かすことができなかった。


そして、黙っていれば全部なかったことになるような気がした。







もしこの時山口君に知らせていたら、未来は変わっていたんだろうか。




今となってはもう、誰にも判らないことだけれど。







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