5
日がさらに傾いた頃、山口君が海から帰ってきた。
この家は海、というより砂浜に面している。正しく言えば砂浜に建ってるのかもしれない。
家主である山口君がサーフィンがしたいがためにこの家に移り住んだのだから、
当然といえば当然のことだけれども。
元は海の家で、民宿も営まれていたらしいから、無駄に部屋数だけは多い。
だから松岡が下宿して、長瀬が泊まりに来れるわけだ。
そんな感じで海に面してるもんだから、山口君はいつも今俺達がいるところ、つまり庭から帰ってくる。
愛用のボードを担いで、潮の臭いをさせて。
「おかえり」
ボードを家の壁に立てかけているところに声をかけた。
「おう。ただいま」
山口君は機嫌良さそうに返してくれる。
「いい波来とった?」
茂君も声をかけた。
そこからは見えない位置に茂君はいたらしい。山口君は少し驚いて、笑顔になった。
「よかったよ。しばらくぶりのいい波だったね。それより、おはよう、シゲ」
「おはよぉ」
茂君の返事を聞いて、山口君は外にある蛇口を捻る。
俺はタオルを取りにその場を立った。
どうせ後でタオルを請求されるのだから、今の内に取ってきておいた方がいい。
ちょうど取り込まれた洗濯物が畳んで置いてあったから、そこからバスタオルを一枚拝借した。
戻ると調度いいタイミング。まさに山口君がタオルを欲しているところだった。
「はい」
「お、気が利くね」
サンキュ、と笑って差し出したタオルを受け取った。
「それにしても、4日?」
「せやね」
髪の毛をバサバサ拭きながら訊く。茂君もそれに答える。
たぶん、というか間違いなく茂君の睡眠時間のことだろう。
「身体おかしいとこない?」
「いつもの気だるさ除けば特にないで」
「ん〜。ちょっと気になるな。血圧とか測っとくか」
そんなことを言いながら、山口君は縁側に上がった。
山口君は医者だ。小さな個人病院で雇われ先生をしてる。
ここに来る前は、どっかの大学病院で期待の新人とか言われていたらしい。
それが、地位も名誉もなげうってこんな田舎に越してきたのは、茂君のためだと聞いた。
とにかく2人は幼なじみだったらしい。
小さい頃から茂君の睡眠障害はあって、それを治したくて山口君は医者になったそうだ。
これは人伝に聞いた話だから、真偽のほどは判らないけど、
2人の共通の友人でもある長野君(もちろん坂本君もだ)から聞いた話だから大凡は正しいだろう。
その詳細には誰も触れないし、興味もないから確かめたことはないけれど。
6
茂君は山口君とともに診察室に行った。
診察室と言っても、俺達がそう呼んでいるだけで、
実際はちょっとだけ造りを診察室風に改造した部屋だ。
取り残された俺は、アイスキャンディーを食べきってから、携帯を取りだした。
呼び出したのは松岡の番号。発信ボタンを押すと呼び出し音。ベル3回で松岡が出た。
『はいはい、どしたの太一君』
「あ、松岡?今何してんの?」
『学校終わったとこ。これから買い物行くけど、今晩何がいい?』
電話くれたから特別に太一君の好きなもの作ったげるよ。
そう言って松岡が笑った。
背景がザワザワしてる。
動いてる気配もあるから、ホントにちょうど終わったところだったんだろう。
「マジで?なら辛いモノがいいな」
『辛いもの?了解』
「あぁ、そうだ。いいこと教えてやるよ」
それを言った時の反応を考えると、口調に喜々としたモノが含まれてしまう。
『いいこと?何?』
「起きたよ」
『・・・・・・・起きた?・・・・・・・・・・ホント!?じゃあ買い物したらすぐ帰るよ!!』
突然口調が明るくなって、電話が切れた。
俺は予想通りの反応に大受けしながら携帯を閉じた。
この家の食事はかなり特殊な場合を除き、松岡が作ってる。
ここに出入りしている人物の中で、まともな料理が作れるのが松岡だったからなんだけれど、
今では食事担当になる代わりに下宿代を割り引いてもらったりと結構図太くなった。
下宿を始めた頃は、見栄えだけはいい山口君や俺の料理を真っ青になりながらも黙って食べてたのに。
ちなみに茂君の料理は結構美味しいのだけれど、手元が危険すぎて山口君と松岡が禁止した。
松岡は近所の大学に通ってる、ここの下宿生。去年だか一昨年だかに山口君が連れてきた。
その大学は俺の母校だけれど、松岡は俺が通っていた学科とは違うところに所属してる。
国文学だかだったと思うけれど、よくは覚えてない。
多分というか、確実に、松岡にその道を選ばせたのは茂君で間違いない。
茂君が作家、しかもあの時任弦であると判明した時に、一番驚いていたのも松岡。
本人曰くデビュー作からずっとファンだったそうだ。
その正体がユルいおっさんだったことが判明しても、尊敬しているのは変わらないらしく、
意地っ張りなせいもあって素直ではないけれど、彼への敬愛の念は俺たちの中で一番かもしれない。
7
「ただいまぁ〜」
松岡との通話を終えたちょうどその時、玄関の方から声がした。
ドスドスと音がして制服姿の長瀬が部屋に顔を出す。
「あ、太一君!!」
「ただいまって、お前の家じゃないじゃん」
俺が笑いながら言うと、長瀬はその辺にカバンを投げ出して座って、言った。
「大学入ったらここに下宿するつもりだから、予行演習っすよ」
「まだ半年あるんだからわかんねぇだろ」
「絶対太一君とマボの後輩になるんです!!」
長瀬はふてくされて頬を膨らます。
「どの学科に行くんだよ」
「音楽科です。このままチェロ続けたいから」
「じゃあ俺の後輩じゃないじゃん。俺デザイン科だったんだぜ?」
「学校は一緒じゃないっすか!!」
長瀬はムキー!!という形容詞が合うような様子で声を上げた。
長瀬は今受験生だ。
この近くの大学、松岡も今通ってるけれど、そこを受けるつもりらしい。
長瀬の家は同じ町内にある。大きな家の息子で、
こことは目と鼻の先に住んでると言っても過言じゃない。
それなのに毎日やってくる。
まぁ、この家では夏場は海の家みたいなこともしてて、そのバイト君でもあるから当然だ。
ホントに最近は入り浸っていて、ほとんど住んでるのと変わりない。
家主である山口君も茂君も何も言わないから、別に構わないんだろう。
親も好きなようにさせてるらしくて、実際だんだんと荷物が増えてきていた。
「あー!!俺のアイスがないっ!!」
ついさっき座ったばかりなのに、慌ただしく台所に行った長瀬が叫んだ。
「太一君っ!!俺のアイスが2本もなくなっちゃった!!」
「あぁ。俺が食べた」
「えー!!!2本も!?」
悲しそうにがっくり肩を落とす。
「俺だけで食べたんじゃないし。茂君も食べたんだよ」
「え!?茂君起きたの!?」
声のトーンが高くなった。
本当に、長瀬の感情表現はわかりやすい。
ここに住んでる5人の中で一番年下のせいか、山口君と、特に茂君が長瀬を可愛がって、
しかも実家でも女系家族の中の末っ子長男だから甘やかされたらしくて、誰よりも子どもっぽいのだ。
誰とでも仲良くなれるから、俺でも今みたいに親しくなるまで時間のかかったのに、
初めてバイトに来たその日に茂君と仲良くなって、その日の内に彼の正体を知っていた。
それは長瀬の長所で才能なのは解っているけれど、何となく悔しい思いをしたのは秘密だ。
だって、羨ましいと思っただなんて、口が裂けても言えるわけがないのだから。
8
「茂君どこにいるんすか?」
きょろきょろとしながら長瀬が言った。
彼が孫のように可愛がってたから、長瀬もすっかり懐いてる。
今無性に長瀬が犬に見えた。
「診察室」
「あ、なら後にします」
一言で長瀬は落ち着いた。
普段仲のいい上2人が、診察室の中では医者と患者になるのを判ってるのだ。
もちろん、長瀬も松岡も、茂君の病気のことは知ってる。
「そういえば、茂君新しいの書いてるんですよね?」
唐突に長瀬が笑顔で言った。
「一応明日締め切りだけどね」
「楽しみですね!俺ようやく今までの読んだんですよ!」
自慢げに手を挙げて発言。
「お前がっ!?」
「何ですか、それ!!」
「だって、なぁ?」
「ひどいよ太一君っ!!」
でかい図体で目を潤ませる。
これが素だから手に負えない。
「冗談だって。まず着替えて来いよ」
「あ、そうだった」
カバンをひっ掴んで、どたばたと騒がしく廊下・階段を走っていった。
「・・・・・・新作かぁ」
明日が締め切りで、今日終わらせると言っていたから、
明日から俺の仕事が本格化するわけだけど、何か変な感じがする。
ふと、ある言葉が頭をよぎった。
「・・・・・・バカバカしいっつーの」
誰に言うでもなく呟いて、俺は立ち上がる。
何となくでも、これが最後かもしれないなんて、そんな不吉なことを考えた自分にムカついた。