1
生温い風が通り過ぎた。風鈴が小さく音を立てる。
海の方からは楽しそうに騒ぐ声。
蝉のウルサイ夏真っ盛り。
山口君は今日もサーフィンに出かけてるんだろう。
長瀬も松岡も姿が見えない。珍しく、静かな午後。
冷房は嫌いだ。人工的な涼しさは、乾燥するし頭が痛くなる。
クソ暑い昼間は電気を消して、有るだけの窓や戸を開け放して、扇風機を回すのがベストだ。
ここは海沿いだから風は潮臭いけれど、そんなのにはもう馴れた。
ここに住み初めて5年も経つのだから。
ギシリと、築60年くらいのボロ屋が音を立てる。
「おはよ」
音のした方を向いて声をかけた。
もっとも、もうすでに太陽は南中してしまっているような時間帯なんだけれども。
「おはよぉ」
俺の言葉にのんびりした声が返ってくる。その人は伸びをしながらこちらにやってきた。
「何読んどるん?」
「アンタの本」
「ぃやぁ、恥ずかしいわぁ」
柔らかい関西弁で、苦笑しながら、読みかけの本を覗き込む。
「それ3つ目のやつやね」
「うん。これが一番好きだよ」
「・・・・・。ありがとぉ」
俺の言葉に面食らった顔をして、茂君は嬉しそうに笑った。
彼は作家だ。
ペンネームを時任弦という。
デビュー1年であらゆる賞を総嘗めにして話題を呼び、今でもその人気は衰えない。
時任弦は人前に出るのを極端に嫌った。
身内と編集ぐらいしかその顔を知らないという謎の作家だ。
松岡なんかは時任弦のファンだったらしくて、彼が正体だと知った時、かなり驚いていたような覚えがある。
「先生、出来ました?締め切り明日ですけど」
「締め切りは明日なんでしょう?明日渡しますよ、国分君」
お決まりの台詞を投げかけるとお決まりの言葉が返ってくる。
互いの役割を確認する言葉。
彼が作家で、俺が編集。そして『時任弦』の作品は日の目を見るんだ。
「今日は何日やの?」
カレンダーを眺めて彼は訊いた。
「7日だよ。8月の」
「あぁ、4日か」
「長かったね」
「・・・・・おん」
茂君は睡眠障害がある。
障害と言って良いのかはよく判らないけど、1度寝たら1日から2日は目覚めない。
原因は判らない。
昔からそれらしき傾向はあったらしいけれど、最近は特に酷かった。
平均睡眠時間は3日になりつつある。起きてもうつらうつらしていて、いつまた眠ってしまうか分からない。
「締め切り延ばす?」
「ええよ。今日は気分がええし、今日中に仕上げるわ」
「お願いします」
「頑張ります」
互いに頭を下げ合い、爆笑。
今日は確かに気分が良い。
たぶん今日の夕飯は豪勢だろう。松岡が腕を奮うに違いない。
2
茂君に初めて会ったのは5年前。ちょうど俺は大学を卒業する年だった。
卒業が近づいて、でも就職先も決まらなくて、どうしようか悩んでいた頃。
その日、突然下宿先に2つ上の先輩が現れた。
「太一、久しぶり」
「わぁ、どしたの!?」
先輩と言うよりは兄に近いかもしれない。
生家が近所の幼なじみで、たまたま同じ大学に進学した坂本君だった。
「いや、後輩が就職先見つからないって聞いたから様子を見にな」
ケラケラ笑いながら坂本君は言った。
「なぁ、ちょっと出れねぇ?会わせたい奴がいんだよ」
その言葉に、この先の運命が判ったような気がした。
もしその通りになったら、小説に出てくるようなベタな展開ではあるのだけれど。
だから、彼に誘われるまま、俺は出かけた。
辿り着いたのは小さなビル。坂本君は長野君と2人、そこで小さな出版社を経営していた。
「いらっしゃい」
中に入るとニコニコと長野君が迎えてくれた。
「久しぶり〜」
「久しぶりー」
「就職決まってないんだって?」
「・・・・・相変わらず直球だね」
長野君も俺にとっては兄に等しい。坂本君の高校からの友人だから。
高校時代は、もう1人入れて3人でよく遊びに行ったものだ。
「隠すのめんどくせぇからな」
俺の苦笑いに坂本君が答えた。
その左手にはコーヒーカップが3つ乗ったお盆。
「単刀直入に言うぜ。お前ウチで働かないか?」
「・・・・・そんなこと言う気もしてたよ」
「なら話は早いね。ウチから本出してる作家さんでね、ちょっと我が侭な方がいらしてね」
「自分の担当を自分を知らない人にしてほしいと宣ったわけだ」
苦笑いしながら坂本君は長野君の横に座る。
「彼は自分の作品のイメージではなく自分へのイメージで装丁されるのが嫌なんだそうだ。
だから自分を知らない奴って指定してきてさ」
「太一は文学なんて読まないでしょ。だから知らないかな、と思って」
「・・・・・さりげに失礼だよね、長野君って」
ずっと前からこんな人だと分かっていたから、別に何とも思わないけれど。
「まぁまぁ。で、太一はデザイン専攻してきてたわけだから、装丁とかできるだろ?」
「やり方が解れば」
俺の返事に気を良くしたか、坂本君は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、紹介しよう」
その言葉を受けて、長野君が隣の部屋を開ける。
「さっき話した彼だよ」
中に向かって声をかけると、人が現れた。
3
その人はダークグレーのスーツを着ていた。
足はスラリとしていて、でもガニ股気味。
焦げ茶の髪の先がくるくるしていて、受ける印象は『ほんわか』。
背は高いのに猫背で、おそらく年は俺とそう変わらないだろう。
「はじめまして」
その人はやんわり微笑んで、手を差し出した。
「城島茂言います」
関西方面の言葉で名乗る。
話に聞いたような我が侭作家には見えない。
「国分です」
「太一、こちらが作家先生の城島さん。もとい、時任弦さんだ」
坂本君の言葉に、一瞬我が耳を疑った。
「時任・・・・・弦?」
「はい」
その名前を口にすると、城島さんが返事する。
「ホントに!?あの時任弦!?」
「そうだよ。てか太一知ってたんだ」
大声を出す俺に、長野君が笑う。
「知ってるよ!!去年賞とりまくってた人でしょ!?」
「どんな賞とったか知ってるか?」
坂本君の質問にふと考えを巡らした。
「知らない」
「他に知ってることは?」
「名前だけ」
「作品読んだことは?」
「あるわけないじゃん。テレビで名前聞いたことあるだけだもん」
「ほらね」
俺の答えを聞いていた長野君が城島さんに笑いかけた。
「ホンマですね・・・・・。僕の作品読んだことない人おったんや・・・・・」
何故か嬉しそうにそう呟く。
確かに、彼のデビュー作とその続刊、そして出す本出す本話題となった。
本格的な文学から絵本のようなものまで、そのジャンルは多岐にわたっていて、
1冊も読んでいない人はかなり珍しい。俺も、その珍しい人の中に入るわけで。
興味がなかったわけじゃないけれど、読む機会もなかったのだ。
「映画化までしてるのにね」
「アレは、僕は許可した覚えはあらへんねんけど」
前の担当が、と小さいボヤキが聞こえた。
「太一、どう?」
長野君が突然そう訊いてきたから、俺は訊いた。
「俺ド素人ですよ?」
「構いません」
「じゃあ決まり。太一、明日から時間がある時おいで」
坂本君が笑った。
出がけの予想通り、あっさりと就職先は決定した。
4
「太一」
「・・・・・うおぁ!!」
名前を呼ばれると同時に冷たいモノが頬に触れる。
思わず変な声を上げてしまった。
「何や、そんなビビることかいな」
「ちょっと考え事してたんだよ」
「ふぅん」
そうして差し出されたのは袋入りのアイスキャンディー。
「食べへん?」
「食べる。こんなのあったんだ」
「たぶん長瀬のやろ」
茂君は俺のそば、縁側に腰を下ろす。
「いいの?」
「ええんやない?名前書いてへんし」
「・・・・・お主も悪よのぉ」
「お代官様ほどでは」
俺の言葉に茂君が乗ってきて、くだらない事で笑い合う。
これもいつものやり取りで、俺にとってこの人が存在することを確認する儀式のようなものだった。
「何考えとったん?」
それはとても穏やかで、違和感を感じるくらい穏やかな口調だった。
「んー?茂くんと初めて会ったときのこと思い出してた」
「あぁ、坂本んトコでやね」
「そう。俺の就職が決まったときのこと」
俺が苦笑いすると、茂君も笑った。
「あの時って、太一まだ無職やってんなぁ?」
「失敬な。学生って言ってよ」
わざとらしく不貞腐れてみると、茂君が俺の頭を撫でる。
「せやったね。僕の我が侭が通ったときや」
「そうそう。アンタ有名人だったから、あんな条件のヒト滅多にいないよ」
あの長瀬でも読んでたんだから。
俺がそういうと彼は笑った。
「そうそう、長瀬も読んどったんやったね!あれはビックリしたわー」
それはとてもとても薄い、どちらかというと詩集のような本だったけど、
漢字嫌い文学嫌いの長瀬が愛読していた。
それは俺が初めて茂くんと一緒に仕事をして、出版した本だった。
────── 内容もなんですけど、表紙とか、俺メッチャ好きなんですよ
初めて会って、自分達が出した本だと判ったときに、アイツはそう笑った。
他の本はあまり読みたいと思わなかったけど、これは読みたくなった、と、
そう言われたとき、嬉しくて、泣いてしまったことを覚えてる。
「嬉しかったよな」
俺の思ってることが解ったのか、茂君はそう言った。
「・・・・・・・・・うん」
それ以上の言葉を連ねても、この肯定の言葉以上に思いが通じることはないように思えて、
俺は素直に頷いた。
この5年間、こんなやり取りを何度繰り返してきただろう。
初めのうちは衝突も絶えなかったけれど、それはきっと俺と茂君は根本が似てるから。
いつの間にか笑い合うようになって、今みたいにふざけ合うようになって。
こんな日々が俺にとっては当然の事だったし、いつまでも続くものだと思っていたんだ。