57
8月最後の日。
その日から1週間が経っても、茂君は起きてこなかった。
眠り始めて7日目に、山口君が何か薬を使っていた。
専門家じゃないからよく判らなかったけれど、目を覚まさせるようなやつらしかった。
それでも茂君は目を覚まさなくて、9日目、病院に運ばれた。
病院では精密検査が行われたらしいけれど、原因も治療法も見付からなかった。
そんなこんなしている内に、息が弱くなってきて、人工呼吸器が取り付けられた。
「久しぶり」
それは14日目のこと。
スーツ姿の茶髪の男が病室に入ってきた。
「・・・・・・・・・・・・中居」
山口君がその人の名前を口にする。
その人は、俺が映画を見ている間に茂君が会っていた人だった。
「どうなんだ?」
山口くんの傍に行って、その人はそう訊いた。
それに対して山口君は首を振る。
俺も、松岡も長瀬も、その何とも言えない空気に押し黙る。
「そっか・・・・・・・・・・・・・」
その人は悲しそうにそう呟いて、鞄の中から白い封筒を一通取り出した。
「・・・・・・・・・・城島氏の弁護士として、手紙を預かっています」
そう言って、封筒を破いて中身を取り出して、読み上げた。
「・・・・・・・っ何で!!?」
長瀬が声を上げた。
「嫌だ!!そんなの、俺は嫌だ!!!」
「長瀬・・・・・・・・」
中居さんに掴みかかりそうな長瀬を、青い顔の松岡が抑えていた。
「ねえ!ぐっさん!!そんなことしないでしょ!!?ねえ!!」
長瀬は泣きそうな顔で山口君に訊いたけれど、山口君は何も言わなかった。
「なんで何にも言ってくれないんすか!!ねえ!!」
「・・・・・・・・・松岡」
山口君は俯いたまま、松岡の名前を呼ぶ。
「長瀬連れて、部屋の外出てろ」
その言葉に、松岡は顔をしかめた。
けれど何も言わないで、暴れる長瀬を連れて外に出る。
「マボ!放してよ!!嫌だ!!ぐっさん!!太一君!!茂君っ!!」
長瀬の声を遮るように、部屋の扉が閉まった。
「・・・・・・・・・っ」
力いっぱい握り締められた拳を、山口君は震わせていた。
『僕が目を覚まさなくなって、機械に頼らなければ生きていけなくなったら』
手紙に綴られていた、直筆の言葉達。
『延命措置は要らない』
それが、こんなにも、
『そのまま死なせてほしい』
悲しいなんて。
山口君の手でスイッチが切られて、小さな音を立てる。
機械はあっさりと、その動きを止めた。
それから数日後。
静かに、彼の時間が停止した。
58
葬儀は身内だけで静かに執り行われた。
それも茂君の希望だった。
あの人の両親と、俺たち4人。そして坂本君、長野君に、数人の友人だけ。
茂君の死亡宣告をしたのも、診断書を書いたのも、山口君だった。
淡々とそれをこなしていった山口君に、長瀬は突っかかっていった。
泣いて、泣き喚いて、山口君を罵倒して、泣き疲れて眠ってしまうまで責め続けた。
それでも山口君は何も言わなかったし、誰かを責めるどころか怒ることもしなかった。
葬儀のときになって初めて、茂君の両親と顔を合わせた。
彼らは、お世話になりましたと俺に頭を下げた。
そんなことないです、と俺が言うと、あの人の両親は揃って笑った。
どうやらあの人はここでの生活の様子を手紙に認めて、送っていたらしい。
「あの子があなたのことをすごく気に入っていたのがよく判ります」
ありがとう、と、言われて、俺はどうしていいのか判らなくなってしまった。
正直なところ、悲しいと思えなかった。
だって、そこにいる“茂君”はただ眠っているだけにしか見えない。
いつもみたいに眠っているだけで、もう何日かしたら、寝すぎたわ、と笑って起きてくるように思える。
それに、葬式の準備やらなんやらは予想以上に忙しくて、悲しんでる余裕なんてなかった。
もしかしたら一番悲しい時間を忘れるために、こんなにやる事がたくさんあるのかもしれない。
そんな事をぼんやりと思った。
喪主は山口君が務めた。
それが遺言の通りなのか、それともあの人の両親の希望なのかは判らなかったけれど、そうなっていた。
通夜から出棺までは、それこそあっという間で、気付けば焼き場まで来ていた。
長瀬が泣いていた。
松岡も泣きそうな顔で、何とか堪えている様子だった。
それをぼんやり眺めていた俺は、少しだけ、羨ましく思った。
どうしてか、俺は、泣けなかったから。
“最後のお別れ”の時、俺は茂君に試し刷りで上がってきた本を渡した。
「約束だったから、さ」
返事が返ってくることはなかったけれど、そう言って。
そして、嫌がって泣き続ける長瀬を宥めながら、あの人を見送った。
高い煙突から白い煙が上がる。
それは青い空に鮮やかにコントラストを描いて、空気に溶けていった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・これで登れたかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ポツリ、松岡が呟いた。
箸渡しは山口君と茂君の両親がして、俺と松岡、長瀬は傍で見ていた。
残っていたのは白い灰と、小さな骨。
それを見て、松岡も長瀬も、言葉を失くして固まっていた。
目が痛いくらいに白く見えて、逆に現実味が薄かった。
馬鹿なことに、それは煙草の灰なんじゃないかと思ってしまった。
だって、御棺の中に、あの人が好きだった煙草を山口君が入れていたから。
こうして、あっという間に、茂君はいなくなってしまった。
59
家に帰ったのは日も暮れかけた頃だった。
山口君は茂君の両親といろいろすることがあったらしくて、3人で先に帰ってきた。
でも長瀬は家に入らずに、そのまま自転車に乗ってどこかへ行ってしまった。
きっと自分の家に帰るんだろう。
静かな家の中で、松岡と2人、息をついた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お茶、飲む?」
しばらくそのままで、2人ともしゃべらないでいたけれど、沈黙を破って松岡がそう言った。
「・・・・・・・・・あ、うん」
俺の返事を聞くと同時に立ち上がって、松岡は台所に行った。
そして麦茶の入ったグラスを持って戻ってくる。
「はい」
「ありがと」
差し出されたそれを受け取って、口を付けた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・夢みたい」
「・・・・・・・・え・・・・・・・・?」
松岡の呟きを訊き返す。
「夢でした、とか、そういうオチじゃないよね?」
自嘲気味に笑いながら、松岡がそう言った。
「・・・・・・・・・・・そうであってほしいけどね」
俺が苦笑すると、だよね、とグラスをテーブルに置く。
「・・・・・・・・・・・・夢なんじゃないかって、どうしても、そう思えるんだ」
その声は少し掠れていた。
「・・・・・・・何か、さ・・・・・・・・これは、夢で・・・・・・・・まだ2階のあの人の部屋開けたら、あの人が寝てて、
明日ぐらいに、寝すぎたわって、起きてくるんじゃないかって・・・・・・・・・そう思えて・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・でも、そんなことは絶対無くって・・・・・・・・・・・・・・だって・・・・・・・・・・あの人、灰になって・・・・・・・・・・」
俯いて、手を握り締めて、松岡は鼻を啜り始めた。
ポタリ、音を立てて、畳に小さな染みができる。
「・・・・・・・・・・・・・俺・・・・・・・・あの人に・・・・・・・・茂君に・・・・・・・・・・・・何も言えなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・うん・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・大好きだったってことも・・・・・・・・・・・・・会えてよかったってことだって・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・もう、いいよ」
そう言って、俺は俯いたままの松岡の肩に腕を回した。
「解ってるよ。あの人も、ちゃんと」
そして、その頭を軽く叩く。
同時に松岡が声を上げて泣き始めた。
心の底から込み上げてきているような、悲痛な泣き声。
初めは小さかった声も、だんだんと堪えられなくなったんだろう、何も気にせず嗚咽を漏らしていた。
慰めなんて意味を持たない。
だから、俺はずっとそのままでいた。
そして、心から、羨ましいと思った。
俺もこんな風に、泣ければ良かった。
60
時間が経つのはあっと言う間だ。
つい最近まで夏だったはずなのに、今ではもう、風が冷たくなってきてる。
きっと、いつの間にかもっと寒くなって、気が付いたら雪がちらつく時期になってるんだ。
そうやって季節は巡って、もう一度夏が来る。
そんなサイクルの中で、いつか忘れていってしまうのかもしれない。
初七日が終わって少しして売り出された時任弦の新作はそれなりに売れた。
何度かインタビューの依頼が来たけれど、今まで通り断った。
彼はファンの前には顔は出さない主義だから。
そもそも、受けたって答える人はもういないんだ。
あの日から山口君を数えるほどしか見てない気がする。
帰ってはきてるみたいだけど、朝早く出て夜遅く帰ってくるからなかなか顔を会わせない。
時々帰ってもきてない日があるらしくて、この1ヶ月、まともに言葉を交わした記憶がない。
この間山口君と顔を会わせたという坂本君が教えてくれたのは、大学病院で働き始めたという話だ。
長瀬にも会ってない。
長瀬はまだ高校生だから、あいつがここに来なければ顔を会わすこともない。
電話もメールも、何も連絡を寄越さない。
結局進路をどうしたのかも知らなかった。
だから、正直なところ、松岡としか顔を会わせてない。
あいつは何もなかったかのように毎日学校に行って、バイトにも行って、今までと変わらずに家事をしてくれてる。
今までと変わらない笑顔を浮かべて。
でも、茂君の部屋には近づかない。
前を通り過ぎることはあっても、そこに視線を向けようとはしなかった。
茂君がいなくなってから、誰もあの部屋に入ってない。
俺も、入れなかった。
怖かったんだと思う。
事実は理解していても未だ納得できてない俺は、結局『時任弦』がもうこの世に存在してないことも公表できてない。
だから世間的には、まだ、彼は生きてる。
あの部屋を開けてしまったら、その評価さえなくなってしまう。
だから、正しくないと解っていても、俺はずっと、行動に移すことが出来なかった。
61
その日、俺は1人ぼんやりとテレビを見ていた。
休みといってもすることもない。
相変わらず姿の見えない2人は当然、松岡もバイトで家にはいなかった。
もしかしたら自分が気づいていないだけで、疲れていたのかもしれない。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
少し寒くて目を覚ました。
そんなとこで寝たら風邪ひくよ。
そんな文句を言われそうだなんて思いながら、両手を垂直に上げて伸びをする。
ガラス越しの視界に海が映った。
波が荒い。
冬の色を見せる海を眺めながら、俺は立ち上がった。
誰もいない部屋の中は妙に暖かみがない。
もうそろそろ暖房の準備をしなくちゃ。
そう思い、ひたすらしゃべり続けるテレビを消した。
同時に音が消える。
今は戸を閉め切っているから波の音は聞こえない。
カチコチ、時計の針が小さく響く。
何気なく、視線を階段に向けた。
人気のない廊下。
当然だ。家には今俺しかいないんだから。
時計の音がやけに耳に響く。
まだ頭が眠っているのだろうか。
視界がぼんやりして、世界から切り離されてるような感覚がする。
何故か緊張した時のように鼓動が早くなる。
たまらなくなって、1歩足を踏み出した。
ぎしりと床が鳴る。
居間を出て、廊下を進み、階段の前。
足を止めて上を見る。
頭のどこかで、誰かが拒否したのを無視して、階段に足をかけた。
足の動きに合わせて板が軋む。
1歩、また1歩、階段を登りきって、俺はその部屋の前で足を止めた。
そして、そのしっかりと閉ざされた扉のノブに手をかける。
何ともないはずの扉が妙に重たい気がした。
鍵でも掛かっていて開かなければいい。
そんな希望が叶うはずもなく、あっさりと扉が開く。
しばらくの間1度も開かれなかった扉が、悲鳴を上げながら部屋を開放する。
いつの間にか恐怖の対象のようになっていたそこは、入ってみればただの部屋でしかない。
1ヶ月ぶりの部屋の中は、主が不在な事以外は何も変わってはいなかった。
62
あの人の気配みたいなのが残っているかと思いきや、らしくもなく、
部屋はまるでホテルのように整えられて、誰かの来訪を待ちわびていた。
こんなにキレイだっただろうか。
そんな事を思いながら、窓に近づいて、開いた。
生憎、部屋の主をはこびだしたときのことなんて覚えていない。
開かれた窓から湿っぽい海の風が流れ込んでくる。
それは部屋の中を漂っていた埃と澱んだ空気を吹き飛ばしていく。
『嫌いやないけど、好きでもないなぁ』
この風に対して、そんな事を言っていたような気がする。
たった一月ほど前のことなのに、もう記憶は色褪せていた。
それが無性に切なかった。
綺麗に整えられたシーツに、それを撫でるように触れながら、机の方に歩いていく。
できたラインを目で追って、そのまま視線を机に向けた。
整理された机の上。
いつもは資料だったり原稿だったりメモだったりが散乱し、
最近は見なかったけれど、昔は煙草の吸い殻が山になった灰皿があった。
それはよく雪崩を起こして机の上を灰まみれにして、松岡に怒られていたっけ。
愛用のノートパソコンが机の隅に寄せられて埃を被っている。
机の上の棚には読み込まれてボロボロになった本。
プラスチックのCDケースにはあの人が好きだったCDが並んでいた。
5年前、初めてここに来たときに通されたそのままの状態のようで、俺は小さく息をつく。
そして、ふと視線を下に落として、一番上の引き出しが少し開いていることに気付いた。
よくないと思いながらも気になって、その引き出しを開く。
引き出しは予想以上に軽くて、勢いよく開いたそこに入っていたのは、A4の茶封筒だった。
『太一へ』
表に書かれた宛名に、一瞬心臓が止まったような気がした。
癖のある小さい字。
見慣れたそれはあの人が汚いと気にしていた。
多分、出来るだけ丁寧に書いたんだろう。
珍しく大きさも形も整っていた。
俺はそっとそれに手を伸ばす。
途中息苦しくなって、深く息を吐いた。
意外と分厚い封筒の口を開いて中身を取り出すと、そこに入っていたのは紙の束と4通の封筒。
そのそれぞれに、俺たち4人の名前が記されている。
紙の束の方はどうやら原稿らしくて、走り書きの小さい字が並んでいた。
俺は、俺宛の封筒を取り上げて、中の便箋を取り出す。
それは、あの人からの直筆の手紙だった。
63
『太一へ』
『何となく、僕の部屋に一番に入ってくるのは太一のような気がして、封筒にそう書きました。
僕の予想は当たったかな?確認することは出来ないけれど』
『これを読んでいるという事は、僕はもうこの世にはいないんだろう。
何か変な感じがする。僕は今、未来の太一に話しかけてる事になるんだから。』
『改まった文は何だか変な感じがするから、口語体で書くな。』
『これが遺言として認められるかは判らん。
でも中居ちゃんに、僕がこうやって手紙を残していく事を伝えといた。
やから、いろいろと落ち着いたら、この手紙を全部持って、中居ちゃんのとこに行ってください。
彼が全部何とかしてくれるはずやから』
『何を話せばええやろう。伝えたいことはたくさんあるのに、いざ書こうと思うと上手く書けん。
作家のクセに我ながら恥ずかしいわ。だから、取り留めのない文章になってしまうことを許してほしい。』
『なぁ、太一。お前がどう思ってるかは判らんけど、僕は太一に会えてよかったて思っとるよ。
初めの頃はケンカばっかりで、腹の立つ事も多かったけど、
僕を僕として見てくれたのは、友達以外でお前が初めてやったから。』
『僕が作家になったのは、自分がそう長く生きられないと知ったからや。
18歳の時にあと何年て宣告されて、正直有り得んて思った。
何で僕がそんなに早く死んでいかなならんのかって、
悔しくて、悲しくて、一年くらい自暴自棄になった。
でも、このまま死んだら、僕は、僕が生きていた証拠も残せないまま、
誰の記憶からも消えて、忘れられてしまう。それが怖かった。
だから作家になった。誰も知らない名前で、表にも顔を出さないで、
それで売れたら誰の記憶にも残るやろう。
僕の予想は大当たり。予想以上に本は売れて、すごい賞ももらって、時任弦は有名になった。
でも、今となっては後悔してる。
映画化の話が出た時、突然僕は怖くなった。
映画化されれば、確かにもっと僕の名前はいろんな人に知られることになるやろう。
事実、あれで僕は一段と有名になった。
でも遠くない未来、僕は死んでまう。
ファンの子が僕にくれた手紙を見て、その子達の期待や感情が重くなってしまってん。
この子らは、僕が死んだら悲しむやろう。僕のせいで誰かが悲しむ事になるという事実が重かった。
だから断ったのに、結局映画にされてしまった。
そして僕は有名になって、僕を依り代にしてるファンの子も増えた。
それでも僕は卑怯な男やから、知らない振りして作家を続けてた。』
『そしてお前に出会って、一緒に暮らし始めて、松岡や長瀬が来て・・・・・・・・・・・・。
楽しかった。
幸せやった。
そして後悔した。
大切に思うモノを作ってしまった事に。
結局、僕は大切なモノを悲しませてしまう。』
『知っとったよ。
松岡も長瀬も、僕が長くない事を理解してて、でもそれを出さんように努力してたこと。
達也が必死に治療しようとしてくれてたことも、太一が苦しんでたことも。
全部知ってて、知らない振りをした。
僕が全部拒否すれば、呆れて離れていくやろう。
そうすれば例え僕がいなくなったって、悲しむ奴はいないやろう。
そんな馬鹿な事を考えてた。』
『それならいっその事、この家を出ていけばよかった。でもそれも出来んかった。』
『それ以上に、自分の知らない誰かやなくて、
こいつらに自分の事を忘れんでいてほしいなんて思い始めた。』
『ごめん。
僕は酷い人間や。
誰かを悲しませることしか出来ん。
どれだけお前を苦しめた事か。
苦しめて、償う事も出来ずにこの世から消えていく。
どれだけ謝っても謝りきれない。』
『そして、ありがとう』
『僕の我侭を聞いてくれて。僕の自分勝手な思いを、矛盾する言動を受け入れてくれてありがとう。
お前の言葉に、行動に、態度に、どれだけ救われたか判らない。』
『僕はこうやって、太一の前からいなくなる。
だから、もうええよ。
前、僕が頼んだ酷い事はもう忘れて。
忘れて、僕の事も忘れてしまってええから。
“忘れないで”なんて、忘れてしまってええから。』
『お前らに、太一に会えて、僕は初めて自分が誰かに影響を与えられる存在なんやって理解した。』
『そして、そうやって生きていけるのは、苦しいけど、幸せな事やって、思う事が出来た。』
『本当にありがとう。僕は、幸せでした。』
『最後に、僕の最後の作品を残しとく。』
『作品なんて言えるか判らん。
ただ、僕の記憶を、残しておきたい。
幸せやったと、誰かに胸を張って伝えられるように。』
『これをどうするかは、太一、お前に任せる。
出版してくれても、燃やしてくれても、捨ててしまっても構わない。
好きなようにしてください。』
『じゃあ、僕は行く。』
『またいつか、別の形で出会える事を祈って』
『太一の幸せを願っています』
64
手紙の最後に記された日付は8月31日。
あの人と話した、最後の日。
読み終えて、初めて気付いた。
いつの間にか俺は泣いていた。
葬儀の日から一度も泣けなくて、もう涙なんて無くなったのかと思っていたのに。
止まらない。
止めようと思ってもぜんぜん制御なんて効かなくて、俺はその場に膝を着いた。
今までずっと、俺は認められずにいた。
茂君が、もう、この世にいないことを。
だって、あの人が目の前にいない生活が日常で、それに慣れすぎてしまっていた。
目の前にいなくても、確かに茂君は存在していて、ただあの人は眠っているだけで、
どうせ明日辺りに起きてくるだろうなんて、そんなふうに考えることが日常だったから。
葬儀の日に松岡が言った、夢じゃないかって言葉は、俺の言葉だったんだ。
俺がそう思っていた。
それを誰も否定しない状況、山口君もいなくて、長瀬もいなくて、それは現実に思えなくて、
それなら茂君が死んだのだって夢じゃないかって、そんな絵空事を頭の何処かで信じてた。
一方的すぎる謝罪と別れの言葉。
俺だって、ちゃんとアナタに伝えたかった。
堪らなくて、気付けば声を上げて泣いていた。
自分が泣いていると認識した途端、胸が張り裂けそうなくらい痛んだ。
苦しくて、悲しくて仕方ない。
溢れてくる涙と感情で息が出来ない。
咳込んで、情けない姿で、俺は泣き続けた。
もう会えない。
もうあの声は聞けない。
あの笑顔も、もう、見ることは出来ない。
もう茂君はこの世にはいない。
蓋を閉めて目を逸らしていたその事実は、突然に目の前に現れた。
家には誰もいない。
他人の目を気にすることもない。
だから今は、ただ声を上げ、感情に任せて、泣いたままでいさせて。
65
そのまま寝てしまっていたらしい。
気が付くと自分の部屋にいた。
目が痛い。
鏡で確認すると赤く腫れ上がっていた。
目が開かない。
泣いたんだから仕方ないか。
そう思って部屋から出た。
もうすでに日は沈んで、辺りは薄暗くなってる。
階段を降り、居間に行くと、山口君が1人テレビを見ていた。
「もういいのか?」
俺に気付いた山口君は、そう言って微笑んだ。
「う、うん」
「顔洗って氷で冷やせよ。ブサイクなツラになってんぞ」
その言葉に俺は赤面して、台所に走る。
蛇口から流れ出る冷たい水で顔を洗い、ビニール袋を二重にして氷と水を入れて目に当てた。
泣き腫らした瞼は熱を持っていたらしくて、冷たさが気持ちよかった。
居間に戻る。
山口君が俺が座るのに合わせて口を開いた。
「あんなの準備してたんだな、あの人」
苦笑混じりにそう言う。
「何なんだろうな、あの的確な予言。何でこういう時だけ勘が鋭いかな」
カサリと紙が音を立てる。
テーブルにはあの封筒が置いてあった。
「よく見つけたな、お前」
「引き出しが少し開いてたんだよ」
「あんなにキレイだったっけ、あの人の部屋」
「俺は触ってないよ」
「俺もさ。松岡だって入ってないから無理だ。長瀬はあそこまでキレイには出来ないし、やらないし」
「片付けてったんじゃない?」
俺の答えに山口君は黙る。
そして俺から顔を背けて、背を向けた。
視線の先にはガラス越しの暗い海。
でも部屋の中の方が明るいから、海なんて見えるはずがない。
「・・・・・・・・・・・・・片付けとか、こんな手紙とか用意してる暇があったなら、もっと早く聞きたかった」
聞こえた呟きに、山口君の背中を見た。
黒い鏡になっている窓ガラスに姿が映る。
そこに映った鏡像の頬を、何かが縦に走り抜けた。
俺は、また目が潤んできたから、窓ガラスから視線を逸らす。
そう言えば山口君も泣いてなかった。
俺は何にも言えなくて、その背中からも視線を逸らした。
66
「松岡と長瀬には俺が渡しておくから」
山口君はそう言って、手紙を持っていった。
「それと、お前それ、早く読んじゃえよ」
そして俺に原稿の入った封筒を渡す。
「お前が読んでからじゃないと、俺は読めないからさ」
頼むぜ、担当さん。
そう笑って、山口君は俺の肩を叩いた。
四十九日法要の日、久しぶりに長瀬と顔を合わせた。
久しぶり、と声をかけると、アイツは泣きそうな顔で抱きついてきた。
「チェロ、やめません」
耳元で小さくそう呟いた長瀬に、俺は訊いた。
「それは茂君の遺言?」
「違います。俺が、決めました」
そして、長瀬は俺から離れて、そう笑った。
長瀬も乗り越えたんだ。
その笑顔を見て、何となくそう思った。
お経を上げてもらって、納骨もして、お参りもして、全部終わってから、久しぶりに4人で家に帰った。
そしてそのまま海岸に出る。
「風強いっすね。ちょっと肌寒いや」
長瀬が日の暮れかけた海を見て言った。
「もうすぐ11月だもん。寒くて当然でしょ」
波打ち際にしゃがみこんだ長瀬の横に立って、松岡がそう答える。
「あっという間に1年経っちまいそうだな」
ネクタイを緩めながら山口君がそう息をつく。
「あ、そうだ」
俺は持っていた鞄の中から紙の束を3つ取り出して、3人に渡した。
「これ」
「? 何すか、これ」
長瀬がそれをぺらぺら捲りながら首を傾げた。
「・・・・・・・・・いいのか?」
一目見て、山口君がそう訊く。
「うん。それ、茂君の最後の原稿」
俺は頷いて、長瀬と松岡に説明した。
「・・・・え・・・・・」
「コピーだけどね」
そして、俺は鞄から、さらに紙袋を取り出す。
「元はこっち。もう読めないけどね、燃やしちゃったからさ」
「え!?何で燃やしちゃったの!!?」
長瀬と松岡が驚きの表情を浮かべて声を上げる。
何となく予想はしていたけど、予想通り過ぎて何だか笑えた。
「コピーさえあれば読めるでしょ。これは時任弦の最後の作品として出版するつもりだし」
「その灰はどうするんだよ」
山口君がそう言って小さく息をつく。
どうするかは判っているみたい。小さく笑ってる。
「山口君こそ、その遺灰の半分、どうするつもり?」
俺が笑ってそう訊くと、山口君はとうとう破顔して、苦笑を浮かべて鞄から小さなビンを取り出した。
「バレてたか」
350mlのペットボトルサイズのその中には、白っぽい灰が入っていた。
「あの人の最後のお願いでさ。灰の半分を海に撒いてくれって」
そう言って、山口君はそのビンを軽く振った。
「ちょうど海に向かって風も吹いてるし。ちょうどいいよな、今が」
そして笑った。
「それと一緒に海に撒くんだろ?」
「うん。正解」
俺が笑うと、松岡も長瀬も不思議そうな顔をした。
「何で撒くんすか?」
「この原稿、読めば判るけど、あの人の思い出なんだよね。
あの人、こうやって文字にして、こっちにおいていくつもりだったんだよ?
こんなところに置いてかないでさ、持っていってほしくない?俺たちのこと、忘れないようにさ」
「・・・・・・・・・・・・・・・そうだよね。俺たちは絶対忘れないんだし」
苦笑浮かべて松岡が小さく呟く。
「そう。だから」
そして、山口君がビンの蓋を開けて、風に乗せて灰を飛ばす。
俺もそれに合わせて紙袋の中の灰を風に乗せた。
意外と少なかった灰は、あっという間に風に流されて消えていった。
「・・・・・・・・・・これで届きましたよね?」
「届いてるって」
長瀬の呟きに松岡が答える。
空は鮮やかな朱色に染まっていた。
「さぁ、帰ろうか」
山口君がそう言って、海に背を向けた。
それについて、長瀬と松岡も砂浜を戻り始める。
俺は少しだけ夕日を眺めて、そして背を向けた。
そうして、俺たちは歩き出す。
でも、忘れないよ、絶対に。
アナタが望んだことも、アナタが大切に思ったことも。
アナタと過ごした日々を、俺は、俺たちは絶対に忘れない。
だから、アナタも忘れないで。
こっちに置いていかないで、持っていって。
幸せだったよ、俺たちも。
アナタに会えて良かった。
だから忘れない。
世間の人が忘れても、アナタのことを知ってる人がいなくなってしまっても。
俺の頭が覚えていられる限り、絶対に忘れない。
ありがとう、茂君。