52

昨日当欠したお陰で、次の日の仕事が倍になっていた。
ただでさえ発行している雑誌の締め切りが近くて忙しい時期なのに。
そう長野君に軽く文句を言われたが、自業自得なので黙って受け入れておいた。
正しくは自業自得ではないけど、仕方ない。
結局その日は残業。土日も返上で出勤して、気が付いたら5日も経っていた。
その日、何とか締め切りも乗り越えて、恒例の打ち上げの後、家に帰った。

玄関に入ってすぐの廊下には、最近ホワイトボードが置かれるようになった。
それには仕事とか外出とか帰宅とか書いてあって、
各人の名前を書いたマグネットを移動させて所在を示しておく。
言い出しっぺが忘れることが多いけれど、大体みんなちゃんと動かしていた。

松岡はバイトで、長瀬は今日もいるらしい。
そもそもここに長瀬の名前があることがおかしいと思うのだけど、
本人曰く来年からここに下宿するからとのこと。
自宅の方が入学予定大学に近いくせに、と言ったら、下宿が夢だったと言っていた。
「ただいま」
「おう、おかえり」
リビングではもうすでに山口君がビールに口を付けていた。
「飯は食ってきたんだろ?」
「うん。食べてきたよ。飲んではないけど」
車だったから、と言うと山口君は笑った。
「お疲れさん。冷蔵庫に入ってる」
そう言って台所を指さす。
「俺にももう1本持ってきといて」
「その前に着替えてくる」
俺は荷物を持って2階に上がった。

あのままビール片手に座ってしまったら、気付いたら朝だったなんてことになりかねない。

自室に荷物を放り投げて、とりあえずTシャツと短パンに着替えた。
洗濯物を持って部屋を出る。
ふと気になって、長瀬の部屋の戸に目をやった。
中で何かしているのだろうが、この時間帯は大体チェロを弾いていたはずなのに。
全く音がしない。
「長瀬」
ノックをすると同時に扉を開ける。
珍しく机に向かっていたらしい長瀬は、隠すように開いていた冊子を閉じて振り返った。
「太一君、帰ってたんだ」
「さっき帰ってきたとこだよ」
おかえり、と言う長瀬に俺はそう答えて中に入る。
「何してんだ?宿題終わってないとか言うなよ?」
笑いながら机の側に行き、閉じられていたノートを開いた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・数V?」
ノートと一緒に閉じられていたのは、数学Vと書かれた問題集。
「お前、数Vまで学校じゃやんねぇだろ?」
「・・・・・・・志望校、変えたから・・・・・・・・・・」
「どこ受けるんだよ?」
俺の問いに、長瀬は視線を逸らす。
そして。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・医学部」
そう言った。
予想外の名称に俺は一瞬言葉を失った。
「・・・・・・・・・・マジで言ってる?」
「マジ、です」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・無謀、ですよね」
黙っている俺に、先生にも言われたし、と長瀬は自嘲気味に呟く。
「・・・・・・・・・や、まだ半年あるから、死ぬほど努力すれば何とかなるかもしんない」
「・・・・・・・・・・・」
「でも、何で今更?」
険しい顔が何も言わず俯いた。
「茂君のため?」
いよいよ長瀬は泣きそうな顔をした。
しばらくの沈黙。
「そんなことしてもあの人は」
「違います・・・・・・・・・・・」
耐えきれなくなって口を開いた俺を、長瀬の言葉が遮った。
「・・・・・・・・・・茂君のためだなんて・・・・・・・・・」
とつとつと、俯いたままの呟き。
「・・・・・・・・・そんなカッコいい理由じゃない・・・・・です・・・・・・・」
長瀬は顔を覆って、そう言った。
「・・・・・・・・・・・・・俺、が・・・・・・・・・俺が嫌だから・・・・・・・・・・・」
何が嫌かなんて、言われなくても何となく想像はつく。
だから俺が訊かないでいたら、長瀬もそれ以上何も言わなかった。
「別に止めとけとは言わないけど」
俺の言葉に、長瀬が顔を上げる。
「チェロ、辞めるんだな」
長瀬は泣きそうな顔で顔を背けた。
「俺は、お前の演奏、好きだったけどな」
俺はそう言って長瀬の肩を叩いて、部屋を出る。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・チェロ弾いたって、助けられないじゃないですか・・・・・・・・・・・・・・・・・」
背中からそんな呟きが聞こえた。














53

微かに聞こえる旋律で目を覚ました。

時計を確認すると朝の6時半。
締め切り明けだから遅く出社していいと言われてはいたけれど、そのまま布団から抜け出た。
足音を立てないように、こっそりと階段を降りる。
最後の一段を降りて、リビングを覗くと、長瀬が縁側で一人、チェロを弾いていた。
題名は知らないけど、柔らかい音色が爽やかに流れていく。
朝に相応しい曲だった。

長瀬はこちらに背を向けていたから、その後姿しか見えない。
周囲の事なんて気にせず、演奏に入り込んでいる。
本人はどう言うかは判らないけれど、俺は、この瞬間が長瀬は一番輝いていると思う。

声をかけないまま、そのまま演奏を聴いていた。
すると背後で小さく床が鳴る。
「おはよぉ」
振り返ると、茂君が小さい声でそう言った。
「おはよ」
口元で指を立てるジェスチャーで俺は意図を汲み取って、小さい声でそれに答える。
そして2人して黙ったまま、その場に腰を降ろして、演奏に耳を傾けた。

「長瀬のチェロ、好きやわぁ、僕」
小さい声で、呟くように茂君が言った。
「本人に言ってあげなよ」
けれど茂君は首を振る。
「・・・・・・・・・・・・・もしかして山口君みたいになるって思ってる?」
「・・・・・・・・・・・・・・?」
「自分の言葉が長瀬の将来を決定させちゃうって」
俺の言葉に、茂君の表情が一瞬固まった。
「・・・・・・・・・・・・・・そんなの自惚れだよ」
思わず俺はそう言っていた。
「茂君が何て言おうが、長瀬は自分の進む道を決めてるよ。自分のために」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうなんかな」
「そうだよ。松岡だって、多分、山口君だってそうだよ」
茂君は視線を下に向ける。
「それに、さ。誰かの影響を受けないで生きてくなんてできないでしょ?」


だって、そんな風に生きたかったら、誰にも出会わないで生まれて死んでいかなきゃならないじゃないか。


「俺は、誰かから影響されて、誰かに影響を与えて、生きていきたいよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辛いやん」
「誰にも関わらないで死んでいくよりはマシだと思う」
茂君の小さな呟きに、俺はそう答えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・そぉか・・・・・・・・・・・」
そう言って、茂君は天井を仰ぐ。
「・・・・・・・・・・僕も今更やんなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで有名になっといてな」
諦めというか、観念したような顔で笑った。
「そうだよ。今更だよ」
「仕方ないなぁ」
俺も笑って答えると、茂君はそう苦笑した。

そして立ち上がる。

ちょうど演奏が終わった。
茂君は手を叩きながら縁側に歩いていく。
振り返った長瀬が顔を赤らめて茂君からの賞賛を受け取っていた。














54

その日、仕事を終えて帰ると、すでに松岡が台所に立っていた。
「おかえり、太一君」
「ただいま。今日何にすんの?」
「長瀬がいきなり8月最後だからバーベキューしようとか言い出してさ。茂君も兄ぃもそれに賛同しちゃって」
松岡はため息をつきながらそう言った。
「いいじゃん、バーベキュー」
「一週間前に焼き肉食べたばっかりでしょ」
「夏は精力つけなきゃ。そういえば茂君と山口君は?」
「上にいるよ。ついでに長瀬は買い物に行かせた」
だから静かなのか。
そう思ったことは口に出さないで、着替えてくると台所を出た。
相変わらずみしみし音を立てる階段を上りきると、ちょうど茂君の部屋から出てきた山口君と鉢合わせた。
「おう、おかえり」
「ただいま。まだ起きてんの?」
「起きてるよ。花火やらなきゃなんないらしいから」
「あぁ、長瀬ね」
苦笑いを浮かべた山口君に、俺も笑い返す。
「ま、今日で8月も終わりだし」
いいんじゃねぇの、と山口君は笑いながら階段に足を向ける。
「あぁ、そうだ」
そして突然俺を振り返った。
「聞いたよ。全部」
「え?」
「シゲのこと」
その言葉に俺は驚いて、一瞬何の反応もできなかった。
「・・・・・・・・・・・・・ありがとな、太一」
山口君は微笑む。
そして階段を降りていった。

「あぁ、そっか・・・・・・・・・」
山口君の背中が見えなくなって、俺は思わずそう呟いていた。


言ったんだね。全部。


閉められていた茂君の部屋の扉に視線を向けて、でも声はかけないで俺は自分の部屋の戸を開けた。














55

庭で広げられたバーベキューは、先日の焼き肉よりもかなり豪勢だった。
山口君が焼酎片手に黙々と食べ、俺がつまんだ肉に長瀬が所有権を主張してケンカになった。
もちろん俺が勝ったわけだけど。
それに松岡が文句を言い、茂君は笑いながら眺めていた。


「花火やりましょうよ!!」
夕飯の片付けもそのままに、長瀬が山盛りの花火を抱えてそう言った。
小さい子が親を引っ張っていくように、茂君を引っ張って浜辺の方に降りていく。
「もー!!片付けしてないのに!!」
「いいじゃねーか、片付けなんて後からで。ほら、行くぞ」
文句を言う松岡を、山口君がバケツ片手に引っ張っていった。
俺もライターを持って、その後を追いかけた。
「うわー!!すげぇ!!」
「お前ヒトに向けんな!!」
長瀬が何本もの花火に一気に火をつけて歓声を上げる。
それを見せようと火を松岡に向けたらしく怒声が聞こえた。
「長瀬っ!!ほれっ!!」
俺は爆竹に火をつけて、2人の足下付近に投げた。
同時に耳障りな破裂音が響き渡る。
「ぎゃあ!!」
「太一君危ないよ!!」
飛び上がる2人の様子に笑いながら、茂君を見た。
茂君は腹を抱えて爆笑していた。
そして、ふと、しゃがみ込んで何かをしてる山口君に目を向ける。
「何してんの?」
不思議そうな顔をしている茂君の代わりに俺は訊いた。
「吹出花火」
そう言ってこっちに走り寄ってきた瞬間、噴水のように光が吹き出した。
「うっわぁ!!すっげぇキレー!!」
長瀬が再度歓声を上げる。
「キレイやなぁ」
茂君がそう呟いたのが聞こえた。
何となくそっちに視線を向けると、山口君が満足そうに茂君を見ていた。
「あ!!そうだ!!」
突然松岡がそう声を上げて家の方に走っていく。
そして戻ってきたその右手には小さなビデオカメラ。
「こないだ奮発して買ったんだ。暗いとこでも結構キレイに撮れるやつ」
嬉しそうに松岡はそう言った。
「記念に、さ」
そう言って、カメラを回し始める。
「見せてー!!」
長瀬は早速興味を持ったらしく、松岡の方に走ってきた。
「お前壊すからぜってぇイヤ!」
「えー!!マボのケチー!!」
2人のやりとりを爆笑しながら眺める。
「松岡ー、花火撮らんでええのー?」
そう言って、茂君が新しく花火に火をつけた。
「撮るよ!!」
寄ってくる長瀬を半ば突き飛ばすようにして、松岡は花火にレンズを向けた。
「あ、これもやろうよ!」
長瀬が花火の山からロケット花火の束を取り出した。
「うわー、懐かしいな、アレ」
それを見て山口君が声を上げる。
「やんなかった?カエルに突っ込んでさ」
「あー!」
そんなグロいことやっとったんか」
「何言ってんの。シゲも見てたでしょ」
そうだっけ、と首を傾げる茂君を、
おじいちゃんだから、とからかいながら素手でロケット花火を投げてる長瀬と松岡を見た。
「お前ら明日それの残骸片付けとけよ!!」
山口君が声をかけると、元気な返事が戻ってきた。














56

「疲れた?」
気付いたら姿が見えなくなっていた茂君を捜すと、砂浜に顔を出しているコンクリートの段差に座っていた。
「ちょっとな」
俺の問いにそう笑う。
「横いい?」
「どうぞ」
そして少し場所を空けてくれたので、そこに腰掛けた。
この位置からは騒ぐ3人の姿がよく見える。
「花火なんて何年ぶりやろ」
「働きだしてからはやってないよ、俺」
「楽しそうやなぁ」
「アンタは楽しくなかったの?」
「楽しかったで?」
小さく笑い声が聞こえる。
「言ったんだって?」
「達也から聞いたん?」
俺の言葉に、茂君はふふと笑った。
「・・・・・・・・・・・もうええかなって、思ったんよ」
「そっか」
「泣かれてもうたけどなぁ。でもすっきりしたわ」
横を見る。
茂君の視線は遠く、暗い水平線に向けられていた。
「・・・・・・・・・・・・僕は幸せもんやね」
視線をそのままに、茂君はポツリと呟きを漏らす。
「心配してくれる人がいて、泣いてくれる人がいて、慕ってくれる人もいて。
 そしていろんな人に、ペンネームではあるけど、僕は知ってもらえてる。
 よぉ考えれば、僕ほど幸せなやつはこの世にはおらんやろうなぁ」
「そりゃそうだよ。どれだけ我侭に付き合ったと思って」
俺が冗談交じりに皮肉ると、茂君は苦笑を浮かべた。
「ホンマやわ。ありがとうございます」
クスクスと小さな笑い声。
そして軽く息をついた音が聞こえた。
「・・・・・・・眠い?」
「・・・・・・おん、ちょっとな」
その返事を聞いて、俺は少しだけ茂君の方に寄った。
「寝ていいよ。あとで山口君に部屋に運んでもらうから。特別に肩を貸したげる」
「何や。優しいやんか」
「何言ってんの。俺はいつも優しいでしょ」
俺がそう笑うと、茂君も笑った。
「せやね。やったらお言葉に甘えて肩借りよかな」
同時に右肩に重みがかかる。
微かにさわる猫っ毛が少しくすぐったかった。
「あぁ、そうだ。来月発売だよ、新しい本」
「そうなん?」
「アンタが寝てる間にずんずん進んでるんだよ。俺の弛まぬ努力で」
「・・・・・・・・・・ふふ、自分で言ったら世話ないがな」
「もうすぐ試し刷りが上がると思う。できたらいつも通り一番に渡すから」
「・・・・・・・・ありがとぉ」
声がだんだんと小さくなっていく。
「茂君」
俺は何となく茂君の名前を呼んだ。
「・・・・・・・んー?」
「俺、今回の話、好きだよ」
「・・・・・・・・そぉか」
「・・・・・・・・・・・今回だけじゃなくて、アンタの書く話、みんな好き」
「ありがとぉ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・茂君に会えてよかった」
「・・・・・・僕も、太一に会えてよかったで・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・うん・・・・・・・・・」

何で、こんなことを言ったのか。
自分でもよく解らなかった。
けど、どうしても、今伝えたいと思ったんだ。

「おやすみ、茂君」
「・・・・・・・・・・・おやすみ、太一」
その言葉を聞いてすぐに、小さく寝息が聞こえてきた。


浜辺の方から3人の騒ぐ声が聞こえてくる。
その他には波の音。
もう虫の声も聞こえていた。
9月に入れば、しばらく暑さは続くだろうけど、すぐに秋になってしまうだろう。
そしてあっという間に冬になって、そして気づいた頃には夏になってるんだ。
でもそれは、今年とはまったく違う夏。

たった1度の夏が、終わる。





















そして、茂君が次に目を覚ますことは無かった。







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