それはまだ、あの子が普通に笑っていた頃だったと思う。







いつからあんな壊れた笑顔を浮かべるようになったかなんて覚えてはいないけれど、
その頃は、傍にいるのも苦痛ではなかったし、願いを叶えてやらなきゃと思っていた。


もしかしたらそれは、今の僕ではないときかもしれない。


全部を全部覚えているわけでもないし、覚えていることも時間的にはごっちゃになっていて、
いつのことなのか、誰が体験したことなのかははっきりしない。


ただ、それは確かに『僕』に向けて発せられた言葉だった。




「お願いがあるんです」






「もし、俺が、─────── 」










・・・・・・・・・・・・・・・あぁ。

どうしてこんな大事なことを、僕は忘れてしまっていたんだろう。

そうでなければ、こんなことをさせてしまうこともなかったかもしれないのに。





いつまで経っても、僕は ──────

























何が起きたのか、一瞬理解が出来なかった。
目に映るのは虚ろな眼で笑みを浮かべる青年の姿。
衝撃を感じた腹部に目をやると、茶色いものが自身を貫いていた。
確認したと同時に競りあがってくる熱いもの。
痛みは無く、ただ熱を持つだけだった。

かはっ

ボタボタと重い音を立てて、血が飛び散った。
青年の身につけている着物がまだらに赤く染まる。
自分を貫いているものが、畳しかないはずの床から生えた、
鋭く尖った枝を持つ樹であることに気付いた時、青年が彼を抱きしめた。
「ゴメンね、茂君。俺が間違えたんだ。だって、おれが知ってる茂君はそんなこと言わなかったもの」
そして、青年は穏やかに笑う。
「次は此処に生まれてきて。それで今度はずっと一緒にいようね。そしたら、昔の茂君に戻れるから。
 大丈夫。もし此処の外に生まれても、また迎えに行くから。今度はすぐに迎えに行くから。
 外の方が良いなんて、そんな悪い事教えられる前におれが迎えに行くからね、茂君」
青年が抱きしめていた彼の身体が小刻みに震え始めた。
口の端から溢れるものも、腹の傷口から流れ出るものも、止まる気配は無い。
「・・・・・あ、そうか・・・・・・そうすれば太一君も、おれの傍にいてくれるよね」
「・・・・・・・・長・・・・・・・・瀬・・・・・・・・・・・」
彼は力が抜けてきた腕を何とか持ち上げて、青年の頭に触れる。
「・・・・・・・・・ごめ・・・・・・・・・・・ごめん、なぁ・・・・・・・・・・・僕・・・・・・・・ずっと、忘れて・・・・・・た・・・・・」
その言葉に、青年は首を傾げた。
「・・・・・・・・・お前の・・・・・・・・・お願・・・・・・・・・僕、何で、こんな大事なこと・・・・・・・・忘れて・・・・・・・・・・・」
瞬間、彼らの周囲に風が巻き起こった。
それは激しく渦巻いて、彼と青年の間を鎌鼬が走り抜ける。
「・・・・っ何で!!何でそんな事するの!!!?」
それは慌てて身を引いた青年の手を浅く切って、彼を貫いていた木々を切り裂いた。
「・・・・・・僕は、まだ、いけん・・・・・・・・・・・・・」
残されていた枝を引き抜いて、彼は部屋の外に向かってゆっくりと這っていく。
「・・・・・・・・・何、で・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・っシゲ!!!?何だよこれ!!!」
ぼんやり呟いた青年の声を遮って、別の声が響いた。
「・・・・・・・・・・たつ・・・・・・・・・?」
「何で、そんな・・・・・!!!」
部屋の入口に立っていた山口は真っ青な顔をして彼に走り寄る。
「血が・・・・・!!」
「・・・・・・・・まだ大丈夫や。まだ、死ねん・・・・・・・・・・・・・それより・・・・・・・・・・・長瀬を・・・・・・・・・」
そう言って、彼は壁を伝って立ち上がる。
山口は示された方に視線を向ける。
そこには呆然とした様子で座っている青年の姿があった。
「・・・・・・・っ長瀬!!何であんなことしたんだ!!」
山口はそう怒鳴って青年に詰め寄った。
「何で!!」
「・・・・・・・・・・・・・だって、アレは、『茂君』じゃなかったんだもん」
「・・・・は!?何言ってんだ!!あの人はどう見たって茂君じゃねぇかよ!!」
「違うよ、ぐっさん。だって、『茂君』は出て行こうなんて言わなかったもん。
 一緒にいよう、って言ってくれたもん。行くところがないならおいでって言ってくれたもん」
取り乱す山口を不思議そうに見ながら、青年は当然のように山口に言った。
「・・・・・・・・・・お前・・・・・・・・・・・・・・・・」
その様子に、山口は言葉を失った。
そして、ふと振り返る。
「・・・・・・・・・・・・シゲ・・・・・・・・・・・・?」
彼の姿はなかった。








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