moonlight shadow












その朝も、よく覚えてはいないけれど、何か嫌な夢を見て、目を覚ました。
時計の針は5時半を指している。
俺はいつものように着替えて外へ走り出した。
夜明け前でまだ暗い。歩く人もほとんどいない。
空気は痛いくらい冷えていて、吐く息は白かった。
空は黒ではなく、濃い群青で、東の方は緩やかに赤いグラデーションを描いている。
俺は快活に走ろうと努力した。そうして現実から離れたかったのかもしれない。
静まり返った街を抜けていく時、意識をはっきり保つのは難しかった。

川音が近付く。
空が刻々と変化して、また1日がやってくる。
橋に辿り着くと、いつものように欄干にもたれて、朝靄で霞む街並みを眺めた。
聞こえるのは川音だけ。
それは何もかもを押し流していくように思えた。
冷たい風を顔に受ける。
まだ寒い3月の空に半月が冴えて映る。

いつの間にか冷えていた身体を温めようと、俺は持ってきていた水筒の蓋にお茶を注いだ。
その時。
「それ何茶?僕も飲みたいなぁ」
不意に後ろで声がした。
あまりにビックリして、川に水筒の本体を落としてしまった。
ボチャンと水音がして、手元に残ったのは湯気の立つたった1杯のお茶。
いろいろと考えながら振り向くと、笑顔の男が立っていた。
歳は自分と同じくらいか、少し上。焦げ茶の猫っ毛を少し長めにして、少し猫背で、
人の良さそうな笑顔を浮かべて、本当にいつの間にか彼はそこにいた。
そして嬉しそうに笑いながら言った。
「今の、グリムだかイソップだかの、犬の話によく似とったな」
「あの話は水に映った自分を見て獲物を落としたんだろ。加害者はいなかった」
俺が淡々と言うと、彼はいっそう笑みを深める。
「せやね。そこが違うねぇ。今度水筒買ったるわ」
「どうも」
あまりに平然と、自然に彼が言うもんだから、何だか怒る気分にならなかった。
不思議と、この出会いが何ともないように思えたし、おかしな奴や酔っ払いとは纏う空気が異なっていたから。
彼はその微笑とは対照的なとても知的で冴えた目をしていて、
まるでこの世の悲しみも喜びも全て飲み込んだ後のような深い深い表情を持っていた。
だから、しんと張りつめたような空気が彼と共にある。
そんなように、思えた。

俺は持っていたお茶を一口だけ飲んで、彼に差し出した。
「やるよ。ホットの麦茶だけど」
「僕麦茶好きやで〜」
嬉しそうに彼は、その意外と細い手で受け取る。
「今ここに着いたばかりなんよ」
旅人特有の高揚した瞳で彼は言って、川面を見つめた。
「観光?西の方から来たの?」
こんな何もないところに何しに来たのかと思ってそう尋ねる。
ちなみにその訛りも気になって、一緒に訊いてみた。
「おん、住んでたんはちゃうけどな。
 知っとる?もうすぐここで100年に1度の見ものがあるんよ」
彼は笑顔で言った。
「見もの?」
「おん。まぁ条件が揃えばやけど」
「どんなこと?」
「まだ秘密。けど、絶対教えるわ。お茶もろたから」
そうして彼が笑うので、何となくその秘密を訊きそびれてしまった。


朝が近付いてきて、世界が動き出す気配がした。
雲の間から光が顔を覗かせると、全てのものが息を吹き返すように輝き始める。


もうそろそろ帰ろうと思い、俺は彼にそう告げた。すると彼はまっすぐな目で俺を見て笑った。
「僕はシゲル言うねん。君は?」
「マサユキ」
「マサユキくんか。近々、また会おうな」
彼 ──── シゲルくんはそう言って手を振る。俺も手を振り、橋を後にした。

彼は妙だった。
彼が言ってることはさっぱりだったが、どうも普通に暮らしている人間ではないように思えた。
走る足を進めるごとに疑問が深まり、何だか不安になって振り返る。
シゲルくんはまだ橋のところにいた。横顔で川を見ていた。
俺は、驚いて足を止めた。彼が俺に見せていたのとは別の顔をしていたから。
そして、その顔は、今まで見たことのないほどの厳しい表情だった。
立ち止まった俺に気付くと、彼はまた微笑んで手を振った。
慌てて手を振り返して、また走り出す。
────── いったいどういう人なんだろう。
俺はしばらく考えた。
いよいよ眠い頭の中にシゲルくんという不思議なヒトの印象だけが刻まれた朝だった。


















あいつらが死んでから2ヵ月。
俺は一度に親友と弟を亡くしてしまった。

俺の弟と、親友の弟も仲が良かった。
その夜、親友の家に遊びに行っていた弟を実家に送り届ける途中で事故に遭ったそうだ。
俺は大学の友人と旅行に行っていてその場にはいなかった。
その事故は、親友に非はなかった。
それでも、2人ともあっさりと即死してしまった。

あいつらが死んでから、俺は毎朝その橋の欄干にもたれてお茶を飲んでいた。
あまりに眠れないからジョギングを始め、その折り返し地点がそこだったからだ。

眠れないと言うより夜眠るのが怖かった。
ハッと目覚めたときいつもそこに居たはずの奴がいないと思うと怖かった。
夢で出てくるあいつらは、実際に見送ったわけでもないのに、車で出かけ、事故に遭う。
そうして、目覚めるのが夜明け前だ。
だから、その夜明けを待つ長い時間を埋めるように、俺は走り始めた。
高いスウェットを2着揃え、シューズを買い、小さい水筒まで買った。
物から入門するところが情けない気がするが、そういう前向きさが良いような気がしたのだ。

春休みに入ってすぐ、走り始めた。
橋まで行ってお茶を飲み、また走る。
帰るとタオルやスウェットを洗い、シャワーを浴びて、朝食を作り、少し寝た。
昼間や夜はどこかに出かけたり、バイトを入れたり、なるべく暇な時間ができないよう必死だった。
それはそれは不毛な努力をして、この絶望から逃れようとした。

そうやっていれば、いつか抜け出せるだろう。

祈るように、日々を過ごしていた。


















それは真昼。
突然その電話はかかってきた。
俺は風邪をひいてしまい、ジョギングもバイトも休んでうつらうつらしてベッドにいた。
少し熱っぽい頭にベルの音が何度も響いて、ぼんやりと起き上がる。
家には誰もいないらしい。仕方なく、最近はあまり使わなくなった受話器をとった。
「・・・・・・・・・はい」
『もしもし。マサユキくんいますか?』
聞き慣れない男の声が俺の名前を呼んだ。
「・・・は?マサユキは俺ですけど・・・・・・・・」
首を傾げて俺は言った。
『あぁ、僕です』
受話器の向こうでその人は言った。
『シゲルです』
びっくりした。
この人はいつも俺をものすごく驚かせてる気がする。
電話番号を教えてないのだから、かかってくるはずがなかったのに。
『突然やけど、今ヒマ?出てこれへんかな?』
「あ、え・・・・・いいけど、何で?何でこの番号が判ったの?」
俺はおろおろした声で言った。
電話の向こうは外らしく、車の声が聞こえる。
『どうしても知りたい思うと自然に判るようになってん』
それもそうか、と思えるくらい彼は当たり前そうに笑った。
『やったら駅前百貨店5階の水筒売り場んとこでな』
そう言って、電話は切れた。
普通なら絶対に外に出ないで寝ているくらいに体調は悪かったのに、断りそびれた。
電話を切ってから少し後悔した。
足もふらつき、熱も上がりそうな感じではあったけれど、好奇心に負けて出かける準備を始めた。
心の奥底にある何かが行け、と言ったように、迷うことはなかった。
後から思えば、運命はそのとき1段も外せない梯子だったのだ。
どの場面を外しても登りきることもできず、そして外すことの方が容易かった。

それでも俺を動かしていたのは、死に掛けた心の中に残っていた小さな光。


厚着をして自転車に乗っていった。
春が来ると思わせる、暖かい陽射に包まれて、切って走る風が顔に吹いて気持ちいい。
街路樹も小さな芽や葉をつけはじめていた。
そのあまりの瑞々しさに、俺は自分の内部がカサカサしていることを感じずにはいられなかった
目には映っても、心の中には春の風景は入ってこない。

並ぶ水筒を背にして、シゲルくんは立っていた。
黒のハイネックのセーターを着て、でもやっぱり猫背で。
そうして人ごみの中にいると、普通の人に見えた。
「こんちわ」
「あれ?風邪?」
俺が近付いていくと彼は目を丸くして言った。
「ごめんなぁ、知らずに呼び出してもうて」
「何で判るかな。顔が風邪ひいてるとか?」
俺が苦笑いすると、彼も笑った。
「おん、真っ赤や。じゃあ急いで選んでな。どれでも好きなもんを」
彼は水筒の方に向き直って言った。
「そうやねぇ。やっぱ魔法瓶がええよな。それとも軽いの?これこの前のと同じやつやんな。
 デザインだけやったら中国物産展やっとるらしいから、そこに行って見てみよか?」
あまりに熱心に彼が言うので、嬉しいんだか恥ずかしいんだかで自分でも判るくらい赤くなってしまった。
「じゃあその白いのがいいや」
俺は、傍にあった小さな魔法瓶を指差した。
「おぉ。お客さん、お目が高いなぁ」
そう笑って、シゲルくんはその水筒を買ってくれた。


屋上の近くにある小さな店でコーヒーを飲みながら、彼はコートのポケットから小さな包みを出した。
「これも持ってきたんよ」
何個も出すので、俺がぼけっと眺めていると、彼は笑った。
「お茶の店やっとる奴に分けてもろたん。ハーブティー、紅茶、中国茶などなど。
 名前は包みに書いてあるさかい、楽しんで水筒に入れたって」
「・・・・・・・・ありがとう」
「いいや、大事な水筒を川に流したんは僕やから」
彼は笑った。


よく晴れて、見通しのいい平和な午後だった。
鼻が詰まって何を飲んでいるのかいまいち判らないけれど、
それ以外は何も問題はないかのように思えるくらい、穏やかな気候だ。
「ところで」
俺は言った。
「ホントはどうやって番号が判ったんだ?」
「いや、マジで、長いこといろんなとこを転々として独りで暮らしとるとな、
 感覚のどっかが動物みたいに冴えてくんねん。いつからかは覚えとらんけど。
 マサユキくんの番号は・・・・・と思うと自然に指が動いて。で、大方あっとんねん」
「大方?」
俺が笑うとシゲル君も笑った。
「せや、大方。まちごうた時はすんませんって笑って切るんよ。あぁ、まちごうたなぁ、て」
電話番号を調べる方法なんかいくらでもあるという事より、淡々と語る彼を信じたいと思った。
彼は人をそういう気にさせる人間なんだろう。

「今日はありがとう。愛人みたいで楽しかったよ」
俺は笑いながら言った。
「じゃあ、愛人にお教えしよか。まず、明後日までにその風邪を治すことやね」
「何で?・・・・・あぁ、見物ってのが明後日なのか」
「ずばり。ええか?他の奴には言ったらあかんで」
ほんの少し、シゲルくんは声を潜めた。
「明後日、朝の5時3分前までにこないだの場所に来ると、もしかしたら何かが見えるかもしれへん」
「何かって何?どんなもん?見えねぇこともあんの?」
俺は疑問の洪水を投げかけることしかできなかった。
「おん。天候にもよるし、自分のコンディションにもよるんや。
 かなり微妙なもんやから保証は出来ひん。でも単なる僕の勘やけど、君には見えるような気がする。
 明後日のその時間はホンマに100年に1回くらいの確立で、ある種の陽炎が見えるかもしれんねん」
その説明もよく解らず、俺は首を傾げた。
それでも久しぶりに何だかわくわくした気持ちを覚えた。
「ホンマ悪いなぁ。かもしれんばっかで」
「いや、いいよ。それっていいことなの?」
「う〜ん・・・・・・・貴重なことではあるけど、せやね。君次第や」
そうシゲルくんは言った。


俺次第。

今の、立ち止まって、前に進めない、


「・・・・・・・判った。きっと行くよ」
俺は笑った。


その、川で見えるかもしれない何かを半分冗談に、半分期待して、シゲルくんと別れた。
シゲルくんはにこにこして街中に消えていった。
もしも彼が嘘つきで、ワクワクして朝早くに走っていってバカを見るかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
思いもよらないことを考える時の楽しみを思い出して、心の中に風が吹いたから。
もし何も起こらなくても、多分2人で川の流れを見てれば気分は悪くないだろう。
それだけでもいい。そう思えたのだ。


















その夜、熱は景気よく上がった。
当たり前だ。ただでさえ具合が悪いのに街をうろついていればそうなるのは当然と言えよう。
親は、それは知恵熱じゃないか、と笑った。俺も力なく笑った。
そう思った。
考えても仕方ない思考が毒になって身体中に回ったのかもしれない。

そして夜は相変わらず2人の夢を見て目覚めた。
親友がいて、風邪なのに何やってんの、と笑う。
弟が文句を言いながら病院に行こう、と手を差し出して、その手をとろうとして、そこで終わった。
最悪な夢だ。
目を開けると夜明け前。いつもなら起き出して着替える頃だった。
とても寒く、体中は火照っているのに手足はしんしん冷えていた。
悪寒が走り、ゾクゾクして体中が痛んだ。
震えながら薄暗がりの中で目を開ける。
自分が何だかとてつもなく巨大なモノと戦っているような気がした。
そして、もしかしたら自分は負けるかもしれないと、生まれて初めて、心から思った。

親友も弟も、俺に言葉に出来ない温かいモノを与えてくれた。
たとえ血がつながってなくても弟は俺の唯一の家族だったし、親友は俺をいつでも対等に扱ってくれた。
恋人とは違う、それでもその存在が傍にいることが当然だったのに。
それを失って、ヒトが出会う一番深い絶望に触れてしまったんだと、俺はぼんやりと感じた。


淋しい。

とても淋しい。


今が最悪だ。
今を過ぎればとりあえず朝になるし、大笑いするような楽しいこともあるに違いない。
朝が、来れば。


いつもそう思って歯を食いしばってきたけれど、立ち上がって走るだけの力のない今は、ただただ苦しかった。
じりじりと砂を噛むような時間が流れていく。気が狂いそうだった。



のろのろと起きあがって、何か飲もうと台所へ向かった。ひどくのどが渇いていた。
熱のせいで家中がシュールに歪んで見えて、家族が寝静まった台所は寒く、暗かった。
俺は熱いお茶をふらふらしながら煎れて、自分の部屋に戻った。
のどの渇きが癒えると呼吸が楽になった。
そのお茶でずいぶん具合は良くなった気がする。
俺は半身を起こしてベッドの脇のカーテンを開けた。

俺の部屋は1階にあって、ちょうど家の門と庭がよく見える。
庭木や花が風に揺れて、写真のように平たい色彩で広がって見えた。それはとてもきれいだった。
そうして外を眺めていて、俺は家の前の歩道をこちらへ歩いてくる人影を見つけた。
近づいてくるにつれて夢かと思い、目を擦る。
しかし擦って見てもそれはシゲル君だった。
白っぽい服を着て、笑顔でこちらを見ながらやってくる。
門のところに立ち、彼は口だけを動かして入っても良いかと訊いた。俺は頷いた。
彼が庭を抜けて窓のところまで来たので窓を開ける。
何となくドキドキしていた。
「寒いなぁ」
彼がそういうのと同時に冷たい風が入ってくる。部屋の中の黴びたような空気が外に出ていった。
「どしたの?」
俺は笑いながら尋ねた。きっと小学生みたいな嬉しそうな笑顔だっただろう。
「朝帰りの散歩やねん。自分風邪がひどいみたいやなぁ。レモン飴をあげよか」
ポケットから飴を取り出して俺に渡しながら、彼は微笑んだ。
「いつもすみません」
そう言った俺の声は掠れていた。
「熱高そうやね。つらいなぁ」
「うん。今朝は走ることも出来やしねぇ」
そう答えながら、何だか泣きたくなった。
「風邪はな」
シゲルくんは視線を下に向けて、淡々と言った。
「今が一番つらいねん。死ぬよりつらいかもしれへん。けどな、これ以上のつらさは多分ないんやで。
 その人の限界は変わらへんからな。また繰り返し風邪ひいて、今と同じくらいつらいこともあるけど、
 本人さえしっかりしとればそれ以上のつらさは生涯あらへん。そういう仕組みやねん。
 そう思うと、こんなもんかって、そんなにつらいことないように思えへん?」
そして、笑って俺を見た。俺は黙って目を丸くした。
このヒトは本当に風邪についてだけ言ってるんだろうか。
夜明け前の薄暗さと熱がすべてを霞ませて、夢と現がきれいに区別出来ない。
ただ言葉だけを心に刻みながら、彼の髪が風に揺れるのを眺めていた。
「じゃあ、明日な」
彼はそう笑うと、ゆっくりと窓を閉めた。
そして軽い足取りで門を出ていった。
俺は夢の中にいるように、ぼんやりその姿を見送った。
何故だか、つらい夜の終わりに彼が来てくれたことが嬉しかった。
すべてが現実感を亡くした幻のように思える時に、その霞を消し去ってくれたようで。
今度目を覚ましたら何もかもが少し良くなるように思えて、そして眠りについた。











目が覚めたら、少なくとも風邪だけは少し良くなっていた。
外は薄暗く、時計を見て夕方であることに気づいた。
何とよく寝たことか。調子が良くなって当然だろう。
起きあがってシャワーを浴び、すっかり着替えた。
ぶり返さないように念を入れてドライヤーで髪を乾かす。
体がだるい以外はすっかり元気になっていた。

シゲルくんは本当に来たのだろうか。

あの時の情景は思い出されても、どうしてもぼんやりとしたイメージしかない。
夢としか思えなかった。

つらさは確実に残っていて、また最悪な夢を見るのかと思うとうんざりした。
けれどそれもおもしろいと思える自分がいた。そう気付いたら少し笑えた。
急に熱が冷めて、俺の思考は酔っ払いのようだった。



その夜、久しぶりに安らかに、夢も見ずに深く眠った。風邪薬のせいもあるだろうけれど。
明日、起きたらあの河原へ、その何かを見に行くのだ。


















夜明け前。
いまいち本調子ではなかったけれど、着替えて走った。
凍り付くような、月影がうっすら空に張り付く夜明け。
俺の足音だけが響きわたって、寝静まった街中に吸い込まれて消えていく。


橋にはシゲルくんが立っていた。
辿り着くと、マフラーに顔を半分埋めたまま笑った。
「おはよぉ」
「おはよう」
それだけを言い交わす。
星が1つ2つ空に瞬いていて、川音は激しく、空気は澄んでいた。
ゆっくりと、月の光が薄闇に差してくる。
「時間や」
静かに、でも張り詰めた声で彼は言った。
「ええか?今から少しの間、ここの次元や空間、時間といったものが揺れたり、歪んだりする。
 自分と僕は並んで立っとってもお互いに見えんようなるかもしれんし、全く違うもんを見ると思う。
 川の向こうにな。でも、絶対声を出したり、橋を渡ったらあかんで。ええか?」
「OK」
俺は頷いた。

そして沈黙が訪れた。
川音だけが響く中で、シゲルくんと並んで向こう岸を見ていた。
少しずつ、夜明けが近付く。紺色が空色に変わっていく。

俺はふと、耳の底にかすかに残っていたものが聞こえた気がした。

ハッとして横を見る。シゲルくんはいなかった。
川音と、それに紛れて聞こえる懐かしい声。俺は目を閉じて、風の中でその声を確かめた。
そして、目を開いて川向こうを見た時、この2ヶ月のいつよりも自分は気が狂ったのだと感じた。
叫び出すのをやっとのことで堪えたくらい。


そこには、親友と、弟がいた。



川向こう、それが狂気や夢でないのならば、こっちを向いている人影はあいつらだ。
川を挟んで、懐かしさが胸にこみ上げ、その姿かたちが思い出の中に残る像と焦点を合わせる。

あいつらは夜明けの霞の中で、こちらを見ていた。
俺がバカなことをした時にするような心配そうな目で、苦笑いしながら。
俺は共に過ごした時間を想いながら、そっちを見ていた。

俺とあいつらを、激しい流れの川が、遠く隔てている。


お前らは何を考えてる?
俺はお前らと話がしたい。
傍に行って、再会を喜びあいたい。





どうして、





どうして急に逝ってしまったんだ。


まだまだ約束したことを果たしてないじゃないか。
休みに入ったら4人でどこかに行こうって、約束したのに。
最期の言葉さえ聞けなかった。
俺の弟として生まれてきてくれたことにも、俺と友達になってくれたことにも、
俺はまだ感謝の言葉も言えてないのに。


でも、でももう運命は、俺たちをこんなにも遠く隔ててしまった。
俺には為す術がないじゃないか。泣きながら、あっちを眺めるしかできない。




あいつらも、悲しそうにこっちを見ていた。


でも夜明けの光が差し込んで、その姿はゆっくりと薄れ始めた。
見ている目の前で、あいつらは遠ざかっていく。

俺が慌てると、あいつらは笑って手を振った。何度も、何度も。
そして、青い闇の中に消えていく。

俺も手を振る。

懐かしい2人。その全てを目に焼き付けておきたかった。



声に出さず、口だけを動かす。
感謝の気持ちと、さよならを言いたくて。









そして、2人は笑って、消えていった。

それは気のせいかもしれないけれど、最後に、聞こえた。
















『 あ り が と う 。 元 気 で 』


























「見たか?」
完全に見えなくなって、全てが元の風景に戻って、横にシゲルくんが立っていた。
そして、身も切れそうな悲しい瞳をして横顔のまま、言った。
「見た」
涙を拭いながら俺は答えた。
「感激した?」
シゲルくんは、今度はこちらを向いて笑った。
「感激したよ」
俺は何故か安心して、微笑み返した。

光が差し、朝が来るその場所に、2人でしばらく立っていた。


















朝一のドーナッツショップでコーヒーを飲みながら、少し眠そうな目で、シゲルくんは言った。
「僕もな、変な形で死に別れた友人と、最後の別れが出来るかもしれへんからこの街に来たんよ」
「・・・・・・・会えた?」
「おん」
シゲルくんはちょっと笑い、言った。
「ホンマに100年に1回くらいの割合で、偶然が重なり合ってああいう事が起きることがあんねん。
 場所時間も決まっとらん。知ってる人は七夕現象と呼ぶんよ、大きな川でしか起こらへんから。
 死んだもんの残留思念と、残されたもんの悲しみがうまく反応したときにああやって見えんねん。
 僕も、初めて見たで。・・・・・・・・自分、きっとツイてるんやな」
「・・・・・・・・・・・100年ねぇ」
その見当もつかない確立に低さに思いを馳せる。
「ここについた時、下見に行ったら君がおった。
 君はきっと、誰かを亡くしたんやと、何となく判ってん。やからお誘いした」
そう笑うシゲルくんは静かな彫像のようにゆるぎなかった。

この人は本当にどういう人なのか。どこから来て、どこへ行くのか。
そして、さっき川の向こうにどんな人を見ていたのか。尋ねることは出来なかった。

「別れも死もつらいやんな。
 でも、そいつのためにこうやって会いに行こうと思えるだけのヒトには滅多に出会えん」
シゲルくんはドーナッツを頬張りながら、世間話でもするようにそう言った。
「やから、今日ちゃんとさよならできて、よかったわ」
そして、それはとても悲しい瞳だった。
「・・・・・うん。俺も」
俺がそういうと、彼は優しく目を細めた。



「これからまたどっかへ行くの?」
店を出て、俺は尋ねた。
「おん」
彼は笑って俺の手をとった。
「またいつか会おうな。電話番号はきっと忘れへんから」
そして、朝の街の人の波に紛れて、彼は去って行った。

見送りながら俺も思った。



忘れない。


たくさんのモノを与えてくれた君を。

















※ 元ネタ :「ムーンライト・シャドウ」吉本ばなな

よしもとばななワールドが再現できてるかどうか・・・・・。
この話を久々に読んで、これはリーダーズに合うな、と思ったので、
無理を覚悟で主人公さつきに坂本さんを、謎の人うららに城島さんを当てはめてみました。
マサユキの親友と弟、シゲルくんの大切な人はご想像にお任せします。
2006/04/30書き上げ

2006/11/01



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