似たような髪の色を見つけると、未だに目で追ってしまう。
居るはずがないのは解っているのに。
だって彼は鏡の向こうの存在で、俺が、この手で、確かに殺したのだから。
オーバーテイル
〜Alice with the Jabberwock〜
それは半年前のこと。
俺は異世界に飛ばされた。
その日、俺は仕事の関係で、日本には珍しい年代物の洋館に行っていた。
商談に関して館の主人と話をしている最中、トイレに立った俺は、あまりの広さに道に迷ってしまい、
アンティーク物が並ぶ部屋に辿り着いてしまった。
そこには見たことのない家具やら何やらたくさんあって、こっそり眺めていたのだけど。
その中に、一際異を放つ巨大な姿見があったのだ。
仕事柄、何となく年代が判るようになっていたはずなのに、それは全く検討もつかない代物だった。
不思議に思って近寄ってみた俺は、その姿見の下の方、飾りの一部に文字のようなものが刻まれていることに気付いた。
「・・・・・・・何だこれ」
年代を判定するための手掛かりになるかもしれない。
そう思った俺は、それをなぞりながら読み上げた。
それは俺の知っている文字ではなかったけれど、何故か意味が分かった。
もしかしたら、その時点で怪しまなきゃいけなかったのかもしれない。
「・・・・・・・“我”・・・・・・・“秩序を”・・・・・・・“望む”・・・・・・・“者なり”・・・・・・・?」
何だそりゃと続けようと思った瞬間、鏡の中に吸い込まれた。
辿り着いた先は東京によく似た所。
ただしビル群はすべて廃墟のようにボロボロで、人々は地下に潜ってひっそりと暮らしていた。
そこは鏡の中の世界で、
俺はその世界を支配する魔物を倒すために呼ばれたこと、
倒すためには魔物が施した6箇所の封印を壊さなければいけないこと、
それを実行しなければ元の世界には帰れないことを伝えられた。
俺は、物語にありがちな、『勇者』になってしまったのだ。
そして、あの世界に辿り着いて初めて出会ったのがシゲだった。
あの人は、この3つのルールを始め、あの世界のことや、魔法だとか剣の使い方だとか、
それ以外の色々なことを教えてくれた人でもあったし、旅の仲間でもあったし、
そして、倒すべき魔物の王でもあった。
厳密に言えば、魔物の王の人間的な部分らしい。
本能だとか禍々しい力とかいった、魔物としての部分を切り離して、人間に紛れていた。
自分を殺すだろう『勇者』を殺すために。
6つの封印は切り離した部分が暴れださないようにするための封印も兼ねていたそうだ。
それが次第に壊されていくにつれて抑えきれなくなり、4つ目の封印を潰すとともに、シゲは正体を明かした。
そして、最終的に俺は、あの人を殺してしまったのだ。
無事に元の世界に戻ってこれたものの、後味は最悪だった。
だって魔物だといっても、生き物の命を奪うのはけして気持ちのいいものではない。
それに魔物の中には、人間にしか見えないような奴もいたのだ。
死にたくないと叫んで死んでいった奴、手を伸ばし誰かの名前を口にしながら消えた奴、戦う前から殺してほしいと懇願してきた奴もいた。
そして後味の悪さはそこからだけ来たわけじゃない。
俺は、あの人を信頼していたし、尊敬していた。
だからこそ、自分自身のことを『英雄』だとか、『世界を救った勇者』だなんて、爪先ほどにも思うことは出来なかった。
俺の中で『俺』は、多くの命を消して、大切な人を殺した大罪人でしかなかったから。
あれ以来、夜はずっと眠れずにいた。
眠れたとしても夢と現をウロウロするような浅いものしか得られない。
しまいには後輩にまで心配されてしまった。
「不眠症専門の病院行った方が良いですよ。顔色めちゃくちゃ悪いですって」
心配顔でそう言われたのは、結構最近のことだ。
でも、行ったって何とかなるものでもないだろう。
原因は判ってるんだから。
夢の中で、俺は何度もあの人を殺していた。
毎回毎回同じシーンが繰り返し繰り返し再生されて、真夜中に目を覚ます。
壊れかけたラジカセみたいに繰り返される、あの人に止めを刺した瞬間の映像は鮮明すぎて、いつまでも色褪せない。
いっそのこと、あの出来事全てが夢の出来事として忘れてしまえたら、どんなに楽だろう。
せめて、もう一度、あの人と話が出来たら・・・・・・・
そんなことをずっと考えていた。
──── ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ん・・・・・・・・
──── ・・・・・・・・・・・・・・・・さん・・・・・・・・
遠くの方で呼び声がする。
聞いたことのあるような、ないような、そんな声。
──── ・・・・・・・・っさん!
だれ ────
「ぐっさん!!」
勢いよく目を開くと、真ん前に後輩の顔があった。
「・・・・・・・・あ・・・・・・・・?」
「めっちゃ顔色悪いじゃないですか!もしかしてこの年末年始、寝てないんじゃないでしょうね!?」
後輩の怒りの声に、俺は曖昧に笑う。
「あれだけ病院行けって言ったのに!もう、今日は帰ってください!!部長には俺が言っときますから!!」
「や、大丈・・・・・・・・」
「大丈夫じゃないから言ってるんですよ!」
後輩は怖い顔のまま、手元の書類を奪っていった。
「何があったかは知りませんが、お願いだから病院に行ってください。
やつれてくぐっさん見るのはもう嫌です」
「・・・・・・・・・・・・・・・・分かった」
珍しくストレートな物言いをした後輩に、俺は要求を受け入れることにした。
「あと頼むな、亀梨」
そう言って事務所を出る。
後輩にすべて任せて、俺は電車に乗り込んだ。
真っ昼間ということもあって、車内は空いていた。
だれもいない車両の、ど真ん中に腰を下ろし、窓に頭を預ける。
頭頂部に触れる冷たいガラスが気持ちがいい。
寝不足以外に風邪でもひいたのかもしれない。
ぼんやりと靄のかかったような頭でそんなことを考えた。
携帯がバイブする。
確認すると後輩からのメールだった。
『必ず病院に行くこと』
その文面に思わず苦笑が浮かんだ。
ガキじゃあるまいし。
そんなことを思いながら、了解と返信する。
そして目を閉じた。
間もなく夢の向こうに沈んでいく。
身体と意識がバラバラになる感覚は久々だった。
──── ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ん・・・・・・・・
──── ・・・・・・・・・・・・・・・・さん・・・・・・・・
また呼ぶ声が聞こえる。
──── ・・・・・・・・っさん
誰だよ、せっかく眠れそうなのに
呼び声は続くまま、誰かの気配がした。
その誰かが俺の横に腰かけた。
他にも場所は空いてるだろうに
何で俺の横に・・・・・・・・
『・・・・・・・・・・・・・ぐっさん。いい加減に起きな乗り過ごしてまうで』
苦笑を滲ませた声が耳元で囁く。
瞬間、意識は一気に覚醒した。
「・・・・・・・・っ!?」
腰かけていた座席から勢いよく立ち上がる。
懐かしい声を探して周囲を見回したが、車内には誰も、いや、1人、正面の席に座っているだけだった。
「おはようございます、山口くん」
真っ黒でヨレヨレの、変なデザインの服を着た男がにっこりと笑った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・お・・・・・・・・・・・・・・・・おま・・・・・・・・・・・・・・・・」
短い黒髪と目鼻立ちのはっきりとした顔。そこに人好きのする笑みを張り付けている。
俺は、こいつを知っていた。
「お久しぶりっすね。あんま元気じゃなさそうですけど」
「・・・・・・・・っお前・・・・・・・・何で・・・・・・・・」
「これが俺の力ですよー。知ってるでしょー?」
そいつはケラケラ笑いながら、座席の上に胡座をかく。
「違・・・・・・・・・・・・・・・・何でお前がこっちにいるんだ!!」
俺は確かに知っているが、こいつに会ったのはあっちの世界で、だ。
「それに・・・・・・・・」
俺はちゃんと覚えてる。
「お前は俺が殺したはずだ・・・・・・・・!!」
こいつの胸に、俺は確かに剣を突き立てたのに。
「あははー。そうでしたねー」
しかし、奴は懐かしそうにそう笑った。
「でもあんなんで俺が死ぬわけないじゃないっすか」
そして猫みたいに目を細める。
「あのねぇ、山口くん。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口くんって長いなぁ。ぐっさんでいい?いいよね」
信じられない俺を置いて、そいつ ──── 俺が殺したはずの魔物、 『チェシャ猫』 はニコニコとそう言い募る。
「あのね、俺、ぐっさんにイイモノあげようと思って」
そして猫はどこからともなく小さな手鏡を取り出した。
「じゃーん」
何がそんなに楽しいのか、ニコニコしながら鏡を掲げる。
「この鏡はね、一度だけ、願いを叶えてくれるんですよ」
猫はそう言い、その手鏡をこちらに投げた。
俺は思わず受け取るが、そのまま座席の上に放り投げる。
「・・・・・・・・っ願いを叶えるなんて、信じられっか!!」
叶える代わりに何らかの対価を取られるに違いない。
俺が声を張り上げると、猫は眉をひそめた。
「えー。でもそれ本物ですよー?まー、叶えるって言っても幻を見せてくれるだけですけど」
つまらなさそうにそう言う。
「幻・・・・・・・・?」
「そうです。
例えば大金持ちになりたいっていう望みなら、なれた時どうなるかっていう幻を見せてくれるんですよ。
対価なんて要りません。ま、どんなふうに見せてくれるかは保証できませんけど」
最悪がっかりするくらいですよ、と猫は頭を掻いた。
俺は少し迷って、鏡を手にとる。
裏返したりして確認したが、特におかしい物でもなさそうだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おい、猫」
警戒しながら猫を呼ぶと、少しふてくされたような表情を浮かべた。
「酷いっすよ、ぐっさん。俺にはちゃんとナガセって名前があるんですから、名前で呼んでくださいよー」
ぷんぷんと効果音が付きそうな様子でそう主張する。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・じゃあ、ナガセ」
「何ですか?」
「何を企んでる」
一時嬉しそうな顔をしたが、瞬時に不満げな色合いを見せた。
「別に何も?」
「俺を殺したいんじゃないのか」
「今さらぐっさん殺しても何も帰ってきませんから意味無いですよ」
「なら何で俺にこんなものを渡すんだ」
出来るだけ低い声を出すと、ナガセの瞳孔が縦に細くなる。
「・・・・・・・・・理由が必要なんて、何でそんなにメンドクサイんですかね。
“気に入ったから”。それだけじゃダメですか?」
溜息をつきながら、長瀬は姿勢を崩した。
「アンタはサカモト君やナガノ君、オオノを殺した時も、最後の最後で躊躇いましたよね?
六柱じゃない他の奴らも、マボの時もそうだ。
柱を殺すのは5人目だったのに、止めを刺す瞬間にアンタは泣きそうな顔をした」
「・・・・・・・・・・・サ、カ・・・・・・?俺は・・・・・・そんなヤツは殺してない・・・・・・・・・・・・・・」
「『グリフォン』、『ハンプティ・ダンプティ』、『ドーマウス』、『マッドハッター』って言えば判りますか?」
ナガセが挙げた名前は、全て聞き覚えのあるものだった。
「シゲル君の時なんて、アンタ泣きましたよね?今までの“勇者”はそんな事は絶対にありませんでした。
でもアンタは俺たちに対して別の感情を持ってくれた。だから気に入ったんですよ。それじゃあダメ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「俺たちからしてみればね、ぐっさん。
“勇者”を相手にするために俺らは生まれたわけだから、消えても別に何ともないんですよ。
例えば俺が死んでしまえば、それまでの俺は消えてしまいますけど、また別の俺が生まれます。
今の俺じゃない、『チェシャ猫』がね。だから、死ぬのは怖いですけど、この世界は終わらないんです。
でもぐっさんは泣いてくれましたよね。それが嬉しかったんですよ。だから」
そうしてナガセは鏡を指差した。
「疑うなら捨ててもらってもいいですよ。ただ、それが俺の気持ちです」
俺は何も言えずにその鏡を握り締めた。
「・・・・・・・・・・そろそろ行かなきゃ。無理矢理こっちの世界と繋げてますから、空間が歪んできてるや」
ナガセが天井を見上げて呟く。
「ねぇ、ぐっさん。最後に一つ、訊いていいですか?」
「・・・・・・・・・・・・何だよ・・・・・・・・・・・・・・・」
「シゲル君は、ぐっさんにとって、『白兎』でしたか?それとも『ジャバウォック』でしたか?」
「?」
質問の意味が解らなくて、俺は眉を寄せた。
その仕草に、ナガセは苦笑を浮かべただけだった。
「俺は、ぐっさんにとってシゲル君が『白兎』だったらいいなぁって思ってます」
そう言いながらにっこり微笑んだ。
瞬間、甲高い音が耳を劈いて、鋭い痛みが走り抜ける。
「・・・・・いっ・・・・・・・・・・」
「バイバイ、ぐっさん」
耳を押さえた瞬間にナガセがそう言って、その姿が揺らぐ。
「・・・・・・・・・・・・待っ・・・・・・・・・・・・・・」
手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。
わぁんという音とともに、周囲に音が戻ってくる。
考えてみれば、今の今まで線路を走る音がなかったような気がした。
俺は手を伸ばした状態で、誰もいない車内に1人立っていた。
ガタンガタンと車両が揺れる。
窓の向こうを流れる景色が次第にゆっくりになっていく。
低い男の声で、次の駅のアナウンスが入った。
伸ばした手の逆手に手鏡が握られていたことに気付いて、それを慌てて鞄に仕舞う。
そしてゆっくりと電車が止まって、俺は開いた扉から逃げるように電車を降りた。
また、夢だ。
目の前に広がる光景に、俺はぼんやりとそう思った。
コンクリート剥き出しの部屋。ガラスの割れた窓の向こうに広がる垂れ込めた雲。
今まさに降り出そうとしている空を見て、俺はそれまで座っていた椅子から立ち上がる。
テーブルを通り過ぎて、テラスに向かう。
緑で溢れさせようという目的で造られただろうそこは、しかし風雨に曝されて腐食してしまっていた。
何故か裸足だったためか、一歩踏み出すとザラザラした触感とともに冷たさが伝わる。
いくらか苔の生えた足元から視線を正面に向けた。
倒壊しかけの高層ビルや、すでに半ばでぼっきり折れてしまったものもある。
妙にリアルだ。
実際にあっちの世界にいる時のような感覚だった。
不意に、背後に人の気配を感じた。
一瞬背中に鳥肌が立つ。
同時に振り返って、俺はそのまま動けなくなった。
「何しとるん」
そんな言葉とともに、その人は俺の横に立つ。
「どうしたん?ぐっさん」
「・・・・・・・・・・・・・・・シ・・・・・・・・ゲ・・・・・・・・・・・・・・・・?」
「そろそろ中に入らんと、雨に濡れてまうで?」
やんわりと微笑んだその見慣れた顔は、髪の色も目の色も、記憶の中の彼と一分も違っていなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・シゲなのか・・・・・・・・・・?」
「?何言うとん、自分。寝起きで呆けとる?」
クスクス笑いながら、シゲは俺の手を取って、部屋の中に引っ張っていく。
「何で自分裸足なん?」
前を歩く細い背中がそう訊いてきた。
「・・・・・・・・・・・・知らねぇよ・・・・・・・・・・・・」
だってこれは夢なんだから。
そう続けようとしたが、言葉は出てこなかった。
「ほら、これで足拭きや」
そしてシゲは俺にタオルを差し出してくれる。
俺はそれを受け取って、椅子に腰掛けた。
シゲは、俺が足を拭き始めたのを確認すると、奥に引っ込んだ。
合点のいかないまま、とりあえず足を拭いて、そこでようやくあることに気付く。
「・・・・・・・・・・あの鏡か」
猫から昼間に受け取った手鏡。あれは確か望みを見せるものではなかったか。
それに思い当たり、1人納得した。
こんなリアルな夢は望んでないんだけど。
そんなことを思いながら、たぶんシゲが用意してくれたんだろう、置いてあった靴に足を突っ込んだ。
コツコツと足音がして、シゲが籠片手に戻ってくる。
「あぁ、降り始めたなぁ」
シゲの視線は俺を越えて外に向けられていた。
「ホントだ」
幻なら好きなようにしても問題はないだろう。
「シゲ」
意外と受容の早い自分に驚きながらも、彼の名前を呼び手を引いた。
「どうしたん?」
意味解らん奴やなー、とシゲは苦笑を浮かべる。
「何となく」
「何やの」
クスクス笑う振動が伝わってくる。
記憶に残る温もりと、寸分も違わない。
相変わらず冷たい手をしてる。
そりゃあそうだ。
俺の記憶が作り出した幻なのだから。
「なぁ、ぐっさん」
シゲは俺の手を外して、テーブルに籠を置いた。
「何?」
「今日誕生日やろ?自分」
そうだっただろうか。
カレンダーはいつを示していたか記憶になかった。
「本当はケーキとか用意できれば良かったんやけど・・・・・・・・・・。まぁこのご時世やから勘弁したってぇ」
申し訳なさそうにシゲは言って、籠にかけられていた布を捲る。
「でも、ワインとジャムが手に入ってん。蝋燭は無いけど、多少は豪華やろ?」
その笑顔に俺は笑い返した。
確かに、あっちの世界では魔物が闊歩しているせいか、食料を確保するのは難しい。
ジャムやワインといった、味を楽しむものはかなりの贅沢品だった。
「ありがとう」
「誕生日やから豪華にせんとなぁ」
俺の言葉に、シゲは嬉しそうに笑った。
どこから調達したのか、ワイングラスを2つ用意して、ワインの栓を開ける。
独特の甘い香りが鼻に届いた。
「他の奴らはおらんから、2人分でええやろ」
「そうだね」
差し出されたグラスを受け取って、香りを楽しむ。
「おめでとう、ぐっさん」
「ありがとう」
「いくつなん?」
「えっと、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36、かな」
「“かな”って何やねん」
「もう誕生日なんて祝わねーもん。数えてる暇もなかったし・・・・・・」
「あっちの世界も大変やねぇ。まー、でも36歳かぁ。おっさんやな」
「アナタに言われたくないよ。俺より年上のクセに」
他愛もない話をしながら、2人でワインとパンを分け合う。
こんなこと、あっちにいた時は滅多に出来なかった。
初めの内はこれ程までに親しくなかったし、慣れ親しんだ頃には、シゲはもう敵だったから。
そして不意に思い出した。
これはすべて幻だってことを。
目の前にいるのは本物の彼ではなくて、鏡が作り出した幻想でしかない。
それが無性に悲しかった。
置き方が悪かったのか、カツンとグラスが音を立てる。
「どないしたん?ぐっさん」
シゲが不思議そうな顔をして首を傾げた。
「・・・・・・・・・俺はね、シゲ」
この気持ちが本当のアナタに伝わらないと分かっているけれど。
「アナタが敵だって判っても、それでもアナタが好きだったよ」
目の前の幻を見ていれなくて、俺は視線を下げた。
「初めて会ったのがアナタだったからってのもあるかもしれない。
いろいろ教えてくれたのがアナタだったからかもしれない。
ずっと一緒にいたからかもしれないけど、俺はアナタに会えて、本当に良かったと思うよ。
あっちの世界では俺は”勇者”で、魔物を殺すことが当然で、そのために呼ばれた存在だったけれど、
殺したくないと弱音を言った俺を、アナタは否定しないでくれた。
それがどれだけ俺を救ってくれたか、アナタは知らないでしょう?
・・・・・・・・・・本当は、アナタを殺したくなんてなかった。
アナタを殺すくらいなら、こっちに帰れなくてもいいって思ってたのに・・・・・」
後悔が次から次に止まらない。
「・・・・・・・・ゴメン・・・・・・・・・・」
でも、もっともっと言いたいことはあるのに、こんな言葉しか出てこない。
アナタと出会えたことを
アナタと過ごした日々を
どれだけ俺が幸せに感じていたか
そして、
感謝を
伝えたいのに
「・・・・・・・・・・・・・なぁ、ぐっさん」
幻が、口を開いた。
「今ぐっさんがなぁ、ここにいる僕のことをどんなものだと思ってるかは想像できる。
信じてもらえるかどうかは判らんけど、でも、僕は今、ちゃんとぐっさんの前に居るんやで?」
俯いたままの俺の髪に、シゲの手が触れた。
「ありがとぉ、山口。そんなふうに思ってもらえとったなんて、思わんかった・・・・・・・・・。
きっと裏切り者って、怨まれてると思っとってん。やから、ホンマに嬉しいわ」
言葉が降ってくる。
これもまた、幻なんだろうか。
「・・・・・・僕は死にたくなかった。だから、山口が現れる前に、魂の欠片をあるものの中にしまっといてん。
そうしたら殺されても死ぬことはないんよ。だからそうやって復活するつもりやったんに・・・・・・・・」
苦笑が響いた。苦笑なんてものではなく、自嘲だったのかもしれない。
その声に、俺は頭を上げた。
「何でやろなぁ・・・・・・・・・。
そのつもりだったのに、何で僕はナガセにこんなことを頼んでもうたんやろ。
でも・・・・・・・・・・ずっと解らんかったけど、でも、今解った気がするわ」
視線の先にあったのは、見慣れた、穏やかな笑顔だった。
「僕もお前が、好きやったんやろうね」
泣きそうに、その笑顔が歪む。
「あの時な、僕、本気で思ってん。お前にやったら殺されてもええなぁって。
・・・・・・・僕らは、死んでしまっても、また生まれてくるけれども、それでも今の僕ではないねんな。
だから僕は死にたくなかってん。死なんけど、今の僕ではなくなるから。
でも、それでもいいと思ったんよ。お前に覚えておいてもらえるなら、殺されてもええなぁって」
その笑顔に、俺はよく分からなくなった。
これは本当に幻なのか?
俺はこんなことを願っていたのか?
「僕らはこうやってしか出逢えへんかったけど、僕は幸せやったよ。楽しかった。
だからそんなふうに気に病まんでぇな。こうなる運命やってん。しゃーないやんか。
そんで、これは僕の最後の我侭や。いっぺんでええから、お前の誕生日祝いたかってん」
泣きそうだった顔は一変して苦笑に変わった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・これは・・・・・・・・夢、なのか・・・・・・・・・・・?」
「そう、夢」
何が起きてるのか分からなくてそう呟いた俺に、シゲが笑った。
「でも僕は僕やで。お前の作った幻やないよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・意味解んない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「うん。解んなくてもええよ」
「そんなの嫌だ」
俺の夢なのに。
そう言うと、シゲは楽しそうにまた笑う。
「言うたろ?これは僕の我侭やって。完全に死んでまう前にお前に会いに来てん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・本物、なの?」
「うん。本物」
「・・・・・・・・・嘘だ・・・・・・・・・」
「お前がそう言うならそうなのかもしれん」
ここはお前の夢の中の世界だから、とシゲの声がした。
「お前がどう思おうが、それは自由やから。でもこれだけは本当の僕の気持ちやで」
そして、シゲは俺の手に触れる。
「ありがとう、山口。僕は楽しかったよ」
そう笑った瞬間、シゲの輪郭が霧散し始めた。
「・・・・・・・・・え・・・・・・・・・?」
「あぁ、もうタイムリミットみたいやねぇ」
自分の手を眺め、シゲは苦笑を浮かべる。
「これでホンマにお別れやね。最後に誕生日プレゼント。受け取ってんか?」
そう言いながら、シゲはポケットから銀色の何かを取り出した。
「実はこれ、僕のお気に入りやってん。知らんやろ?見せたことないもんなぁ、僕」
悪戯が成功したときのような笑みを浮かべて、その懐中時計を俺の手に握らせた。
「僕にはもう必要ないから。良かったら使ったって」
「・・・・!!!」
だんだんと輪郭が薄くなっていく中、俺はようやく目の前の人物が本物のシゲであることに気付いた。
だって、俺はこの人がこんな時計を持ってるなんて知らなかったし、そんなふうに思ったこともなかった。
俺の願いを元に作り出された幻なら、こんな展開が有り得るはずがない。
「・・・・・・・・・っなん・・・・・・・・・で!!?・・・・・・・・・・俺・・・・・・・・・」
「山口」
「・・・・・・・・・俺アナタに一番言いたいこと、まだ・・・・・・・・・!!」
「お前はまだ願いを言ってへん」
「シゲ、俺はアナタに」
「出来れば、もう全部終わらせてくれたら嬉しいなぁ」
「ちゃんとありがとうって言ってないのに・・・・・・・・・!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・今聞かせてもらったで」
にっこり笑ったその姿は、反対側が透けて見える。
瞬間、妙に頭が冴えたような気がした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺も、アナタと会えて楽しかった」
言いたい言葉がすっと頭をよぎって、スムーズに口を衝いて出る。
「・・・・・・・・・ありがとう、シゲ」
そう言うと、シゲは嬉しそうに笑った。
「じゃあな、山口」
そして、その言葉が最後だった。
目を開くと、布団のシワがぼやけた視界に映った。
頭が働かなくて、そのままもう一度目を閉じる。
頬に当たるシーツの感触が心地好い。
けれど何も着てないのか少し寒くて、布団を被ろうと手を伸ばした。
伸ばした先にシャラリという音ともに手に金属の感触。
寝ぼけたままそれを握り締めて、ハッと目が覚めた。
「・・・・・・・!!」
勢いよく起き上がって、手の中の物を見た。
それは、夢の中でシゲがくれた、銀の懐中時計。
瞬間、朧げだった夢の記憶がはっきりと頭の中に再生される。
「・・・・・・・・・・・・・・・・っ」
意識せず、頬を何かが流れた。
胸を押さえつけるような何かに、堪えきれず声が漏れる。
もう泣かないって決めたはずなのに。
ああ。
それでも構うもんか。
誰もそれを咎める人はいないんだ。
ただひたすら泣いた。
だってもう、あの人には会えないから。
ようやく衝動が治まってきて初めて、もらった時計の針の音に気付いた。
「おめでとう、ぐっさん」
夢の中で聞いた声が、もう一度聞こえた気がする。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ありがとう、シゲ」
俺の言葉に応えるように、カチリと小さな音を立てて、長針が一歩足を進めた。
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