境界を越えると、警備についている悪魔達から声をかけられた。
それに笑顔を返して、いつも通り廊下を進む。
そして分かれ道でいつも通りに左に進もうとした時、再び声をかけられた。










長野が部屋に入ると、坂本は書類と睨み合っている最中だった。
「坂本君」
「おう、悪いな。少し待ってくれ」
呼び掛けにも書類から目を離さずに応じる坂本に、長野は少しだけムッとする。
しかし黙ってソファに腰かけると、置きっぱなしの雑誌を手に取った。
人間界の言葉で書かれたそれは、恐らくは井ノ原が持ち込んだものだろう。
それをパラパラと見ているうちに、坂本が独り言を言いながら席を立ち、本棚の前で仁王立ちになる。
長野は雑誌から目を離してその姿を見た。
スラリとした後ろ姿の、短めの上着の隙間に見えたシルバーに焦点を合わせる。
それはチェーンでベルトに繋がれ、ポケットから頭を出している鍵の束だった。
長野はおもむろにソファから立ち上がると、坂本と並ぶように横に立つ。
「ねぇ、坂本君」
「んー」
坂本は手に取っていた分厚い本のページを捲りながら、上の空で返事をした。
「これ見ていい?」
「おう」
長野が指差したものを確認せず、やはり上の空で相槌を打つ。
その返事を聞いて、長野は坂本のポケットから鍵の束を引っ張り出した。
シャラリと音を立てたそれは、大小様々な鍵が束ねられていて、角度を変えると本体や装飾が光を弾いてキラキラと輝く。
「ちょっと借りていい?」
駄目元で尋ねてみると、坂本は相変わらずの空返事で頷いた。
長野はありがとうと呟きながら、その束をチェーンから外す。
そして自分の上着の胸ポケットに仕舞った。
「ありがとう」
長野はそう言うと、足早に部屋から出ていく。
どういたしまして、と答えてから、坂本ははたと手を止めた。
「ん?今本じゃなかったよな・・・・・」
そう呟き、何気なく腰に手を当てる。
そして普段と違う感触に、慌ててポケットをチェックした。


「長野ぉぉお!!!!」
青醒めた表情で勢いよく部屋を飛び出す。
ちょうど部屋の前を通り過ぎた三宅が驚いて悲鳴を上げた。
「何だよ!ビックリしたじゃん!」
「ちょ、健!長野見てねぇか!?」
文句を言いかけた三宅も、坂本の勢いに気圧されて言葉を飲み込み、頭の上に疑問符を浮かべる。
「え?長野君?長野君ならさっきあっちで・・・・・」
言葉とともに指差すと、三宅が言いきる前に坂本は走り出した。
それに関して三宅が何かを思い付く前に、坂本の姿は見えなくなった。
「・・・・・・・・・・あんなに速く走れるんだぁ」
一人取り残された三宅は、ポツリとそう呟いた。





聞き覚えのある声に振り返ると、坂本が追いかけてきているのが見えた。
「速!」
その形相に驚いて、長野も走り出す。
「待てよ!」
「待たないよ!そんな怖い顔してんのに!!」
「その鍵だけはマズいって!返せ!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・。ヤだ!」
「何でだ!」
少し考え込んでから拒否した長野に、坂本が怒りの声を上げた。
「あー!もう!!止まれっつってんだろ!!」
坂本の怒声とともに、前方を遮るように巨大な氷柱が降ってくる。
それを右手の一払いで粉砕すると、前もって教えられていたように、突き当たりを右に曲がった。
「あっ!そっちは・・・・・!」
引き攣った声を上げ、坂本は足を速める。
「そっちは俺の領地じゃねぇからダメだって!!」
「そんなの知らないよ!」
「お前ぇー!!」
長野は振り返り、べぇと舌を出す。坂本の額に青筋が浮いたのが見えた。
と、正面を見ると突き当りに扉があった。


──── 右に曲がって真っ直ぐ。突き当りに「1」と書かれた扉があるから、そこに入るんだ。


先に言われた言葉を思い
出して、その扉を確認すると、数字の1をモチーフにした飾りが見える。
それを確認して、長野は勢いよくノブに手をかける。
「あ!!待て待て待て!!!その扉開けんなぁ!!!」
悲鳴に近い声で坂本が叫ぶ。振り返ると血相を変えていた。
けれど長野は迷うことなく、部屋の中に飛び込んだ。
「ぎゃー!!長野!!!入るな・・・・・・・・・・・・・・」
引き留めようとラストスパートをかけて手を伸ばしたが、あと少しの所で届かない。
伸ばした手は空を掠め、扉の閉まる軽い音が人気のない廊下に空しく響いた。




「?」
絶叫が聞こえたような気がして振り返ると、何故かそこには扉はなかった。
「あれ・・・・・・・・?」
長野は慌てて入ってきたはずの所を調べるが、ただの壁でしかない。
「何これ・・・・」
そこはカーペットが敷かれた6畳ほどの洋風の部屋で、窓も家具も何もない部屋だった。
きょろきょろと周囲を見渡すと、入ってきたはずの壁の向かい側に扉がある。
それには入口にあったのと同じようなデザインの、今度は「2」をモチーフにした飾りが付いていた。


──── その次は「2」の扉。


飾りを見て、長野は教えられたことを思い出す。
今更だけれど、この教えをあっさりと信じてしまっても良かったんだろうか。
そして、本当に今更ながらそんなことを考えた。
目の前には出口なのか別の部屋への入り口なのか、さっぱり分からない扉。
何の変哲もないドアノブを見つめたまま、長野は眉間にシワを寄せた。






坂本は長野が消えた扉の前でノブを見つめて固まっていた。
次々と思い出されるのは、まだ何も知らなかった時にこの部屋の中で体験した数々の出来事。
出来ればこの中には入りたくはないのだが、しかし長野と長野が持っていったものの所在が気になる。
「う・・・・・・・・・・・・・・」
右手をノブに向けて中途半端に伸ばして、中途半端な位置で止めた。
頭の中で嫌な思い出と長野を天秤にかける。
それはもちろん時間をかける間もなく答えが出た。
「・・・・・・・・ええい!なるようになれ!!!」
半ばやけくそになりながら、目を閉じてドアノブに手をかける。
そして勢いよく扉を開けて中に飛び込んだ先には。
「あ?」
床が無かった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
瞬間、支えを失って身体が落下し始める。
背筋を冷たいものが走り抜け、得も言われぬ感覚が身体を包んだ。
「ぎやああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
久方振りに味わう落下の恐怖に坂本は悲鳴を上げる。
「やっぱり開けるんじゃなかったチクショおおおおおおおおおお!!!!」






「・・・・・・・・・・・・・・・・・・えー・・・・・・・・・・・・」
意を決して長野が扉を開けた先には、鬱蒼と生い茂る森があった。
「扉を開けたら森って・・・・・・・」
呆然と立ち尽くす長野の後ろでバタンと音がする。
咄嗟に振り返ると、扉どころか壁さえもなく、生い茂る緑だけが広がっていた。
「・・・・・・・・・・・えぇ〜・・・・・・・・・何だよこれ〜・・・・・・・・・・・」
まったく理解できない状況に、長野は弱弱しく声を上げる。
その時だった。
「長野おおおおお!!!!」
「!!!?」
上の方から悲鳴のような声がして、反射的に見上げる。
その視線の先には、ガサガサと音を立てて枝々にぶつかりながら落下してくる坂本の姿。
「頼むから勢い緩めてくれ!!!」
泣きそうな坂本の声に、考えるよりも早く身体が動いていた。
坂本に向かって強風を起こし、落下のスピードを緩める。
突然の気流の変化に轟々と音がして、地面に激突する1メートル手前で坂本の身体がふわりと浮かび上がる。
そして風が止み、ぐえっという悲鳴とともに坂本が着地した。
「大丈夫!!?」
背中から勢いよく地面に落下した痛みで、声もなく悶絶している坂本に慌てて長野は走り寄る。
「何で飛ばないんだよ!!」
「・・・・・・・・・・っ飛べねえんだよ!!」
腰を擦りながら起き上がりつつ坂本は怒鳴った。
「何で!」
「羽根出ないだろ」
「は?」
坂本の言葉に長野が眉を寄せる。
その表情に坂本は、出してみろよ、と長野の背中を指差した。
「出せないわけないじゃん。・・・・・・・・・・・・・・あれ?」
売り言葉に買い言葉で、ムスッとしたまま長野は背中に意識を向けて、声を上げた。
「え!!?何で!!?何で羽根出ないの!!?」
焦った様子で長野は声を上げ、背中を振り返りながらくるくる回る。
未だかつて起こったことがない事態に、パニック状態に陥っていた。
「落ち着け。そういうルールだからだよ」
説明するから、と坂本が言うと、泣きそうな顔をしながら坂本に詰め寄った。
久しぶりにこんな顔を見るなぁと少しだけ楽しい気分になったのだが、
そのまま見ているとパニックが振り返しそうだったので、その場に座らせる。
「まず、説明の前に鍵返せ」
そう言って手を出すと、長野は素直に鍵の束を渡した。
「ちゃんとあるな」
「それ何の鍵なの?」
念の為、と中身を確認する坂本の手元を長野が覗き込む。
「地獄の門の鍵」
「何でそんなの持ってんの!?」
「一応管理責任者だからな。まぁほとんど使わねぇけど」
元あったところに取り付けながら説明する坂本に、長野はほうと息をついた。
「どうせ盗られても俺しか使えねぇんだけど」
「そうなの?」
「凍土王だけの特権だからな」
「ふぅん」
「で、ここのことだけど」
坂本は長野の正面に腰を降ろすと小さくため息をつく。
「ここは地界とも天界とも違う別の空間なんだ。俺達は『部屋』って呼んでるけど、東山さん・・・・・・・・・・眞王の特技でさ」
「部屋?」
「そう。あの人が思った通りの異空間を造ることができるんだよ。
 その中ではあの人が決めたルールが強制的に適用される」
長野はよく分からないという表情を浮かべて首を傾げた。
「例えば、子供の姿になる、とか一切の力は使えないとか。どんなに力が強い奴でも関係無しだ」
「じゃあ今羽根は使用禁止っていうルールだとか?」
「その通り。さっきお前が力使えたから、力の禁止はされてないけど制限はされてる。
 思ったより弱い風しか起こせなかっただろ?」
その問いかけに長野はハッとして頷いた。
「じゃあどうしたらここから出られるのさ」
「方法は二つある。一つは、この中のどこかにいる東山さんを倒す。気絶させるでも可。
 ちなみにこっちは制限はかかったままだけど、東山さんには何の制限もない」
「そんなの無理じゃん。もう一つは?」
「正式な手順を踏んで出してもらう」
「正式な手順?」
「そう。この空間にはちゃんと出口がある。ただし一定の条件を満たさなければ出てこないんだよ」
「例えば?」
「そうだな・・・・・前俺がやられたのは、だだっ広いホールの中に大量の鳥が飛んでて、
 その中の一匹を捕まえたら出られるってやつとか」
「簡単じゃん」
「全く同じ模様大きさの鳥が何百羽もいて、羽根も出せないし力も使えない状態でそれを言うか?」
「・・・・・・・・・・ゴメン」
坂本の言葉に、長野は素直に謝った。
飛べなければ、力が使えなければ一羽捕まえることさえ難しい。
「と、いうわけで、こっから出るためには、まずはクリアすべき条件を探さないといけないわけだ」
そう言って坂本は立ち上がる。長野も倣って立ち上がった。
「とりあえず歩き回ってみるか」
「それで条件が分かるもんなの?」
「まぁ9割は」
「9割?」
「一回間違えて入ったことがあってさ。出口は無いわマジで死にかけるわで大変だったよ。戦争中のことだけど」
「・・・・・・・・・・そうなんだ」
戦争という言葉に表情を曇らせた長野をちらりと見て、話をそらすように坂本は歩き出す。
「行くぞ」
「あ、待って」
少し小走りに、その後ろ姿を追いかけた。

急ぐでもなくのんびりと歩きながら、周囲の景色を眺めたり、他愛もない話で盛り上がる。
不意に草むらで小さな音がして、反射的に長野が振り返って。
「あ」
低木の隙間から顔を覗かせた少年と目が合った。
「っ!!」
一瞬で表情を変え、元来た方向に走って逃げた少年を坂本が追いかける。
「坂本君!?」
「お前はそこで待ってろ!!」
低木を掻き分け森の奥に消えていくその姿を、長野は呆然と見送った。

「待ちやがれ!」
枝を掻き分け木の根を飛び越え、それでも結構な速度で坂本は追いかける。
しかし少年の姿はぐんぐんと見えなくなり、いつのまにか完全に見失ってしまった。
「マジかよ・・・・・」
息も絶え絶えになりながら立ち止まる。
そして息を整えるためにゆっくり歩きつつ、少年が消えた方向に進む。
草木を掻き分けようやく辿り着いた開けた場所には、長野がこちらに背を向けて立っていた。
「長野」
「え・・・・・あれっ!?何で後ろからっ!?」
「あ〜・・・・・なるほど・・・・・」
驚いて動揺している長野をよそに、坂本は身体に付いた小枝を払い落とす。
そして、不安そうな長野に自分が元来た方を指差した。
「ちょっとあっちの様子見てきてほしいんだけどさ」
「えっ、あ、あっちって森の中じゃん!」
「いいから、まっすぐ歩いてってみ。突き当たるまで」
よく分からないと顔にはっきりと表しながら、首を傾げつつ森の中に入っていく。
「・・・・・もー、意味分かんない」
文句を言いながらも言われた通りに草をかき分けて、まっすぐに進む。
その内に進行方向の木々の隙間から光が漏れてきた。
「意外とすぐに突き当たり・・・・・」
少し早足に草むらを走り抜けると、そこには遙か後ろにいるはずの坂本がいた。
「おかえり」
「えっ!?何で!?」
「ループしてるからだよ。東山さんはどうしてもここから離れさせたくないらしい」
坂本のループという言葉でようやく長野は理解した。
正式な出る手順を踏まなければこの位置からも離れることができない。
逆にいえば、ここにいれば正式な手順へのヒントがあるはず。
「・・・・・・・・・つまり、あの子がヒント?」
先ほど現れた少年は、明らかにこの空間での異質な存在だった。
「正解。とりあえずあのガキ捕まえてみよう」
坂本がそう言った瞬間、先ほどと全く同じ状況で少年が草むらから顔を出した。
そして同じように踵を返して走り去る。
それを坂本が追い駆け、長野は逆方向に向かって走り出した。
顔に枝が当たり、躓きそうになりながらも、坂本がまっすぐ追いかけるだろうことを期待して低木を飛び越える。
少しだけ開けた空間に着地して顔を上げた瞬間、目の前に少年が飛び出してきた。
「うわっ!!?」
「あ・・・・・・・・・・・まっ、待て!!」
慌てて進行方向を変更した少年を捕まえようとして手を伸ばし、その手は少年をすり抜ける。
「えええ!!?」
そのままバランスを崩して倒れてしまった隙に、少年が走り去る。
少年は一瞬チラリと振り返り、けれど止まらずに姿を消した。
「大丈夫か!?」
「うん・・・・・・・・・・・・」
少年の走って来た方から、少し遅れて坂本が現れる。
差し出された手を掴んで引き起こされながら、長野は小さく唸って考え込んだ。
「どうした?」
「・・・・・・ううん・・・・・・・・」
坂本の問いかけに曖昧に言葉を濁す。
ほとんど誰のことも興味がなくて、最近になってようやく周りの人物のことを覚え始めたのに、
滅多に会うことのない子どもに既視感を覚えるのは、誰が聞いてもおかしいと思うだろう。
何で見たことがあると思ったんだろう。
「・・・・・・・・・・・・・」
何かが喉元まで出てきて、それ以上は出て来なかった。
「おい、大丈夫か?」
「うん。大丈夫。もっかい行こう。次は捕まえる」
「お、おお」
坂本の手を振り払うようにして、長野は元の位置に戻っていく。
不思議そうな表情を浮かべながらも、坂本はその後をついて行く。
もう一度小道に戻り、少年が出てくるのを待つ。すると待つ間もほとんどなく再び少年が現れた。
二人はまた同じ方法で少年を追いかける。
走りながら、長野は少年への既視感の理由を考えた。
どこで見たことがあるんだろうか。
初めて見たときは何も思わなかったのに、何で記憶があるうちに子どもと鬼ごっこなんてないはずなのに、何で懐かしく思うんだろう。
何で、あの見たこともないはずの少年のことを『知ってる』ような気がするんだろうか。
考えが進むに比例して頭の中でサイレンが鳴り始める。
じわじわと痛みが滲み出して、長野は走りながら顔をしかめた。
どうして頭痛がするのか。何でちょっと切ない気持ちになるのか。
意味が分からなくて、小さく息をついた瞬間、再びあの少年が飛び出してきた。
「っ!」
先程と同じように、長野の姿を確認したと同時に進行方向を変えて走っていく。
「待て!」
今度は転ばぬように意識して走り出した。
少年は小柄な身体を生かして上手い具合に低木をすり抜けていくが、長野は自分の身体に風を纏わせて、障害を凪ぎ払って進む。
直線で移動する長野の方が速度は速く、捕まえられる位置まで追いついた長野は手を伸ばした。
しかし、また手は少年をすり抜ける。
長野は崩れそうになる体勢を立て直して、追いかけ続けた。

その2人の姿を見付け、坂本も追跡に参加する。
しかし、その後ろ姿がぐんぐん離れていく。
その光景に違和感を感じて、前を走る背中に呼びかけた。
「長野っ!ちょっと止まれ!」
声が届いていないのか、距離は離れていく一方で、坂本は瞬間的ならと足を速めた。
一度はそれで距離は縮んだものの、次の瞬間、少し前の景色が揺らぐ。
嫌な予感がして足を止めたが、勢いを殺しきれず数歩進んだ。
その先で、見えない壁にぶち当たる。
「やっぱりか!」
壁を叩いて坂本は声を荒らげた。
「目的は長野ですか!」
そして、そう言いながら振り返る。
その視線の先には予想通りに上司の姿があった。
「そう怒るなよ」
東山は言いながら、坂本の横まで歩いてきて肩を叩く。
「もうすぐ終わるから、黙って見といてやれ」
「・・・・・・・・・・・・・?」
そして透明な壁がスクリーンのように映像を映し出した。




走りながら記憶を辿っていくが、少年の姿はどこにも見つからない。
それどころか、ある一定以上前の出来事は全く思い出すことができなかった。
今までそのことを深く考えたことはなかったが、気が付いたら気になって仕方がない。

何で子どもの頃のことが分からないんだ。

何かをきっかけにしようとしても、それさえも無い。
唯一きっかけになりえそうなモノが、前を走る少年だった。
相変わらず、自分は恐らく名前を知っているだろうに、出てきそうで出てこない。
そんな状態がもどかしくて喉元が痒くなってくる。
そして次第にそれは苛つきに変わり、走り疲れてきたのも相まって、着火した。
「いい加減に止まれよ!!」
長野は目の前の少年に向かって怒声を上げる。
「何だよ!!何で逃げるんだよ!!俺は何にもしてないんだから、お前に何か心苦しいことがあるんだろ!!
 それを弁明もせずに逃げるなんて卑怯だ!!」
少年は聞いているのかいないのか、何の反応も見せず走り続ける。
「聞いてんの!?待てよ!!」

──── 待ってよ

「黙ってないで何とか言えよ!!」

──── 何とか言ってよ

──── 何で怒ってるの?

──── 分かんないよ

──── 教えてよ

聞いたことのない声とともに、締め付けられるような痛みが頭に走る。
それにも腹が立って、長野は声を上げた。
「・・・・・・・・・っこの弱虫!!」
「弱虫って言うな!!」
その声に少年が足を止めて振り返った。長野は併せて足を止め、その顔を見る。

──── あぁ、やっと追いついた

見慣れた馴染みの顔と、少年の顔が、年齢は違えど一致する。
「・・・・・・・・・・達也、君・・・・・・・・・・」
そして、口が勝手にそう動いた。出てきた名前は、普段の呼び名とは異なるものだった。
瞬間、ガラスが割れるような音がして、周囲が粉々に崩れる。
少年の姿も同じく消え去った。
同時に景色が変わる。
どこかの部屋なのか、テーブルと書棚が現れた。床の感触が絨毯に変わり、坂本は周囲をちらりと確認する。
「長野!!」
呆然と立ちすくんだままの長野に走り寄る。
大丈夫かと覗き込むと、困惑の表情を浮かべ、動揺しているのが手に取るように分かった。
「なん・・・・・『達也君』?山口君?・・・・・俺、山口君のこと知ってた・・・・・?」
長野の呟きを聞いて坂本が表情を歪める。
そして東山の方を向いて、けれど何か言いたそうな表情で睨みつけただけだった。
「長野」
東山はそれを気にすることなく、長野に歩み寄る。
混乱したままの長野が視線を向けると、東山はその肩に手を置いて口を開いた。
「よく頑張ったな。今日は一度戻りなさい」
「え・・・・・は・・・・・はい・・・・・」
その言葉に素直に従い、訳が分からないまま長野は踵を返す。
「おい、長野!?」
坂本の呼び掛けには応じず、そのまま扉を開けて部屋から出て行く。
その向こうに見えたのは、いつもと変わらない城の廊下の景色だった。
「詳しいことは、恐らく植草が知ってる。気になるなら聞くと良い」
その背中にそう声をかけると、東山は坂本を見た。
「送ってやれ。ちなみに俺は詳しいことは知らない。当人達に訊けよ」
「・・・・・分かりました」
言葉少なに肯定を示すと、坂本は部屋を飛び出し長野を追いかける。
少しうなだれた様子の背中に、坂本は追い付いて横に並ぶと同時に掌を叩き込んだ。
「痛!!」
バシンという音とともに長野が悲鳴を上げる。
突然の行為に非難の言葉を上げようとして、坂本の表情にその言葉を飲み込んだ。
「・・・・・何で坂本君の方が怒ってんのさ」
「別に。怒ってねぇよ」
「怒ってるよ」
不機嫌を隠そうともしない坂本の態度に、長野は苦笑を浮かべる。
不機嫌になりたいのはこっちだよと思いながら、それは口にしなかった。
「何が気に入らないの」
「別にって言ってんだろ」
「俺もよく分からないんだから、説明出来ないよ」
長野の言葉に坂本が分かってるよと呟く。
「・・・・・・・分かったら教えろよ」
「分かったらね」
未だに不貞腐れた様子の坂本に、長野は再度苦笑を浮かべた。
子供みたい。
そんなことを思いながら、歩みを速めた坂本の背中を追いかけた。






(追懐2へ続きます)
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だいぶ時間が経ってしまいましたが、久しぶりの更新です。
一つ屋根の下設定で勝利ツートップ、コミカル&ほのぼのというリクエストでしたが、
コミカル&ほのぼのだったのは前半だけでしたね・・・・(汗)
とりあえず、次の話に続けたかったので、ご容赦ください。
それにしてもオチがない・・・・。

最近、東山さんの使い勝手が良すぎて困ります(笑)
『先輩』、『上司』という立場は、
上下関係が厳しい彼らにとってはかなりのストッパーになってくださる(笑)
出しゃばらせてしまってすみません。

大変お待たせしました!!
いかがでしょうか、匿名希望さま。
本当にお待たせしてしまってすみません。
改めて、リクエストありがとうございました!!

2011/10/09




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